メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.23 慶應義塾医学所

1878年、三田に設置された医学所の卒業証明書
昭和58年5月に『慶應義塾大學醫學部六十周年記念誌』が上梓された。大正9年大学令に基づく医学部本科開設から数えて昭和55年が創立60年に当たるところから、その記念事業として3年の歳月を費やしての出版である。ただ慶應義塾の創立130余年の長い歴史の流れのなかで捉えるとき、忘れてならないものに、明治6年に創設された慶應義塾医学所の存在がある。もちろん「六十周年記念誌」も指摘しているように、この医学所は現在の大学医学部とは別個のものである。けれども福澤先生が義塾の研究教育のなかで、医学について深い関心をもたれたのは、はるかに遠い昔からのことであったという事実は、やはり記憶されてよい。

この医学所が創設された経緯は、福澤先生のふとした発意から生まれたようである。即ち或る日、紀州出身の前田政四郎という塾生が先生に向かい、医者になるにはどうしてもドイツ語を学ばねばならない、塾にはその便がないので他の学校に移りたいと述べたところ、先生は医学を学ぶのに何もドイツ語でなければならない理由はあるまい、英語でも十分修得が可能な筈で、慶應でも、英語で医学の修得ができる学校の設置をこの際考えてみたいということになった。早速三田の福澤邸内に住んでいた門下の医師松山棟庵を呼んで相談し、その結果が医学所の誕生となった。創設に当たり先生は私財3000円を投じた。明治6年10月のことで教授スタッフには松山を校長に、新宮涼園、杉田武らが当たり、武の父杉田玄端が付属診療所の主任となった。開校時の学生募集広告によれば、予科2期、本科5期に分けられ、本科では主にハルツホルン(H.Hartshorne)の医学書をテキストに用いたようで、ほとんどの医学所がドイツ医学の修得を目指したのに対して、慶應医学所がイギリス医学を志向したのが注目される。明治7年2月23日付の福沢書翰には「目今医学生30名に近し」とあり、東京府に提出した届書には、10年4月から6月には在学生86名とある。ただ医学教育に本腰を入れるには私立の学塾の手にあまり、しかも義塾自体が経営的に存廃の危機にあったことも手伝い、13年には廃校のやむなきに立ち至った。その間約300名の卒業生を送り出したにとどまり、ドイツ医学全盛の趨勢にわずかに一石を投じるだけの結果となったが、この試みが、後年の医学部創設への萌芽的役割を果たしたことも、亦たしかであった。