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[慶應義塾豆百科] No.15 塾監局

大正15年に竣工した塾監局
慶應義塾では、塾務を扱う総本部を「塾監局」と呼んでいる。塾を管理するところというほどの意味でもあろうか。

ただ、局というのは役所などの何々局と同義で、事務の一区分またはその一区分をつかさどるところをさすのであって、この塾監局もはじめは義塾の事務をとるいくつかの部局の一つなのであった。すなわち、義塾に関する現存資料の中で塾監局なることばを見ることのできる最初のものは明治4年の『慶應義塾社中之約束』であるが、それによると、社中の職務は4類に分かれ、第1類を塾監局、第2類を会計局、第3類を童子局、第4類を教授方の担任としている。そして塾監局では、入社の規則、入塾の規則、塾中の規則、通学生徒の規則、門の規則、応対掃除の規則、書籍出納の規則の七ヵ条に関することを職務とするようになっている。

しかし、明治30年代の事務分掌規程を見ると、塾務はすべて教頭、塾監、会計主任の手で運営処理されることになっており、なかでも教頭、塾監は一時は塾長とならぶ実権者であったといわれる。もっともそのころは事務機構としての塾監局という呼び名は別になかったようであるが、少なくとも塾監局であるべき本部の建物があって、そこにそういう塾監がいたのである。

それから、やがてこの塾監なる職名がなくなり、事務機構にもいろいろ変遷があったが、明治40年代になると、右の塾監局なる呼称が、明治初年のそれよりももっとひろく、各事務の部局全般を包含する意味で使われるようになって、次第に今日の姿をととのえてきた。

いまでは、塾監局には総務部、人事部、経理部、管財部、学事センター、基金室、塾員センター、入学センター、一貫教育支援センター、学術事業連携室の4部2室その他があって、各地区の事務室もそれぞれの分局ということになり、およそ義塾全般の事務を管掌するところとなっているのである。

なお、この塾監局ということばは事務機構の名称たると同時に、普通その事務所のある場所もさすが、現在は三田山上の東北部、慶應義塾図書館旧館の前にあるゴシック風の建物がそれにあてられている。鉄筋コンクリート造地階共4階建、延740余坪(2450平方メートル)、大正15年9月の竣工で、それ以前は同じ場所に、明治20年にできた煉瓦造り2階建てのものが建っていた。