塾_327号_夏
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終戦80年・慶應義塾と戦争(日吉キャンパス編)前回(春号)の三田・信濃町両キャンパスに続き、今号では日吉キャンパスを取り上げる。戦争末期、日吉の校舎の一部は帝国海軍に接収され、地下には連合艦隊司令部などが建設された。そして敗戦後、今度は日本に進駐した米軍によっておよそ4年間にわたって接収される。キャンパスと戦争との関わり、そしてその痕跡である「日吉台地下壕」について紹介する。昭和を迎えた頃、学生数の増加により慶應義塾では三田キャンパスが次第に手狭になり、1927︵昭和2︶年より新キャンパス開設を検討し始める。すると沿線の田園都市構想の一環として学校誘致による旅客需要増を目指す東京横浜電鉄株式会社︵現・東急電鉄株式会社︶から7万2000坪を無償提供するとの申し出があり、日吉キャンパスの開設が決まった。1934︵昭和9︶年4月に大学予科の移転をもって日吉キャンパスの歴史が始まる。同年11月には福澤諭吉誕生100年を兼ね、日吉開校記念祝賀また当時の文部省は校舎の貸与を会が開催さ慶應義塾に求め、日吉キャンパスでれた。19は1944︵昭和19︶年3月から第39︵昭和一校舎や寄宿舎などを海軍省に貸与することになった。日吉は地理的に工学部︵現・霞が関︵海軍省・軍令部︶と横須賀理工学部︶︵軍港︶のほぼ中間に位置し、無線通信環境も良好。しかもキャンパスの寄宿舎は鉄筋コンクリートの堅固な建物で、個室も多く司令部機能はもちろん、居住環境としても最適と考えられたのだ。まず海軍による寄宿舎の全面使用が始まり、同時期にキャンパス地下で軍事施設の建設が急ピッチで進んだ。建設された施設は軍令部第三部退避壕、連合艦隊司令部地下壕、航空本部等地下壕、人事局地下壕で、総延長距離は約2・6㎞に及ぶ。キ日吉台“の土地約の前身である﹁藤原工業大学﹂が開校。同大学は1944︵昭和19︶年に慶應義塾に寄付された。しかし、その頃第2次世界大戦の戦況は悪化の一途をたどり、1943︵昭和18︶年10月には満20歳に達した文系学生の徴兵猶予が廃止され、終戦までの間、約3500名の塾生が学徒出陣により戦地に送られた。”塾 SUMMER 2025NO.327      ステンドグラス田園都市構想に沿った「日吉キャンパス」誕生戦争に翻弄され続けた日吉キャンパスの歩み22【あの日、あの時、映像でよみがえる慶應義塾】~「VIRIBUS UNITIS 力を合せてー慶應義塾復興記録 1947 ~ 1949 ー」14︶年には、日吉開校記念祝賀会(福澤研究センター提供)竣工時の日吉キャンパス(福澤研究センター提供)

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