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[特集] 戦中、戦後の義塾をめぐって(1)

 
2016/01/28  慶應義塾

2015年は、アジア・太平洋戦争の終戦から70年の節目の年だった。徴兵の学生への猶予がなくなり、1943年から終戦までで、慶應義塾は約3500名もの塾生を学徒出陣で送り出した。一方で、義塾は最大の空襲被害を受けた大学であり、その戦火の爪痕は、戦後の復興の大きな足かせとなった。義塾の戦中、戦後を振り返り、戦争に巻き込まれた日々を記憶にとどめたい。

(「塾」2016年WINTER(No.289)掲載、特集「戦中、戦後の義塾をめぐって」より)

学徒出陣と義塾の戦没者

軍事教練で日吉キャンパス第一校舎前を行進する予科生
▲軍事教練で日吉キャンパス第一校舎前を行進する予科生
戦前の日本には男子に兵役義務を課す徴兵制があり、満20歳で徴兵検査を受けることが定められていたが、1927(昭和2)年の「兵役法」では、学生には徴兵延期の特例があり、20歳になっても学業の継続が認められていた。

しかしアメリカとの戦争が始まった1941年には、卒業を早める繰り上げ卒業や徴兵猶予期間の短縮が始まり、戦局が不利に傾いていった1943年10月2日に公布された勅令により、満20歳に達している文科系の学生の徴兵猶予停止が決まり、徴兵検査を受けた後、12月初旬には学業半ばで陸海軍に入隊することになった。ただし、理科系の学生は「国家の必要」として、23歳まで入営を延期された。義塾では、医学部、理工学部の前身である藤原工業大学が理科系にあたる。

文部省は10月21日に、雨中の明治神宮外苑競技場において東京周辺の出陣学徒を集めて「出陣学徒壮行会」を挙行したが、義塾でも11月23日に三田山上で塾生出陣壮行会が行われ、約3000名の出陣塾生が参加した。出陣塾生は出陣壮行歌、応援歌を合唱後、福澤諭吉の墓参に向かった。

翌1944年、さらに45年4月入隊の塾生を含めて、出陣学徒数は約3500名と推測されている。現在までにわかっている範囲で、在学生のおよそ385名が戦没している。また出陣学徒以外の卒業生・教職員なども含めた義塾関係者全体の戦没者は、確認されているだけで2220名を超える。2014年10月に、最新の情報に基づき補正を加えた慶應義塾関係の戦没者名簿が、三田キャンパス・塾監局前の庭園にある「還らざる学友の碑」に納められた。
大講堂前での塾生出陣壮行会の様子。大講堂も戦災で焼失し、現在は同じ場所に西校舎が建っている
▲大講堂前での塾生出陣壮行会の様子。大講堂も戦災で焼失し、現在は同じ場所に西校舎が建っている
三田キャンパスを後にする出陣塾生
▲三田キャンパスを後にする出陣塾生
還らざる学友の碑。志半ばで学業に戻ることができなかった学友をしのび、1998 年に設置された。当時の鳥居泰彦塾長による碑文「還らざる友よ/君の志は われらが胸に生き/君の足音は われらが学び舎に 響き続けている」が刻まれている
▲還らざる学友の碑。志半ばで学業に戻ることができなかった学友をしのび、1998 年に設置された。当時の鳥居泰彦塾長による碑文「還らざる友よ/君の志は われらが胸に生き/君の足音は われらが学び舎に 響き続けている」が刻まれている

語り継がれる「最後の早慶戦」

出陣学徒壮行早慶戦
▲出陣学徒壮行早慶戦
1943年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」が早大戸塚球場で行われた。既に東京六大学野球連盟は解散し、公式戦は行われていなかった。計画したのは阪井盛一主将、片桐潤三マネージャーら野球部員だった。平井新野球部長を説得し、小泉信三塾長の賛同を得て、早大野球部に試合を申し込んだ。戦争が激しくなるなか、早大側には慎重論もあったものの、野球部員たちの熱意が実り、開催にこぎ着けた。

試合は早大の勝利で終わったが、試合後に球場全体で沸き起こった「海行かば」の大合唱が、戦地に赴くことになった義塾と早大の出陣学徒へのエールとなって響き渡った。

[特集] 戦中、戦後の義塾をめぐって(2)は2月1日ごろ掲載予定です。
  • ※写真提供:福澤研究センター


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