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[ステンドグラス] 慶應義塾図書館開館100年 一世紀にわたり親しまれる、義塾のシンボル

2012/04/16 (「塾」2012年SPRING(No.274)掲載)
竣工当時の図書館全景[1912(明治45)年]
義塾創立50年を記念して1912(明治45)年に竣工した図書館旧館。今年5月に開館100年を迎える煉瓦造りの優美な建物は、義塾のシンボルであり、一世紀にわたり塾関係者のみならず多くの人々に親しまれてきた。
※写真:慶應義塾図書館所蔵






竣工当時の図書館全景[1912(明治45)年]

堅固にして優美なネオ・ゴシック様式建築

上部に「創立五十年紀念 慶應義塾圖書館」と刻まれた正面玄関
書籍館書庫[1891(明治24)年頃]
赤い煉瓦造りにアーチ形の窓、慶應義塾図書館旧館の堅固にして優美な姿は、100年にわたり多くの塾生、塾員に親しまれてきた。特に三田で学んだ塾員にとっては、母校を思うとき脳裏に浮かぶその存在感は大きい。塾外の人たちが「慶應義塾」をイメージするときにも、この建物を思い浮かべることは多いのではないだろうか。

義塾において「図書館」の名称が使われ始めたのは、1905(明治38)年のことである。塾員であり、社会学の教授であった田中一貞(たなかかずさだ)の初代図書館監督(館長)就任とともに、それまで書籍館あるいは書館と呼ばれていた図書室の名称を「図書館」と改めたことがその嚆矢(こうし)だ。

この頃より本格的な図書館をつくろうという機運が高まり、今から100年前の1912(明治45)年、三田山上にネオ・ゴシック様式の図書館が優美な姿を現したのである。

明治建築の特徴を伝え現在は国の重要文化財

図書館遠景[1912(明治45)年頃]
設計・監督は、曾禰達蔵(そねたつぞう)と中條精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)。曾禰はジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の草分けの一人であり、丸の内オフィス街の元となった三菱煉瓦街を設計したことで知られている。

地上2階地下1階の壮麗な洋館に、20万冊(1927[昭和2]年の書庫増築で45万冊に)の収蔵能力と200席余りの閲覧席を擁する仕様は、当時の大学図書館として他に類のないものであった。その意匠は、明治建築の面影を色濃く残すものであり、現在は国の重要文化財に指定されている。
11文字のラテン語が刻まれた正面の大時計
図書館旧館には、ディテールにも目を見張るべきものがある。正面に向かって右端に高くそびえる八角塔は、ひときわ目を引く存在であり、建物全体の美観を見事に引き立てている。正面に掲げられた大時計も、外観に調和をもたらすアクセントとして欠かせない。その文字盤には、数字ではなく、ラテン語で「時は過ぎゆく」を意味する「TEMPUS FUGIT(テンプス フギット)」の11文字が刻まれ、12時の位置には砂時計がデザインされている。

地震、戦災を乗り越え、今も塾生が学ぶ現役図書館

空襲の被害に遭った図書館一階広間[1945(昭和20)年]
1923(大正12)年の関東大震災では、外壁に亀裂が入った程度で済んだが、1945(昭和20)年の空襲では、焼夷弾落下により屋根が抜け、内部が炎上する被害を受けた。ただし、空襲に備えて図書の多くを疎開させていたほか、被災時の特設防護団員の活躍により、書庫への延焼や貴重資料の焼失は免れた。1949(昭和24)年には修築工事が行われ、元の姿を取り戻している。

その後、蔵書数は増加を続け、書庫の狭隘(きょうあい)化が喫緊の課題となる。この問題に対応すべく、1961(昭和36)年に二度目の書庫増築が行われ、1982(昭和57)年には三田・第二校舎跡地に図書館新館が開館した。

図書館としての機能の多くを新館に譲った旧館だが、現在も書庫として活用されており、塾生、研究者が熱心に調べものをする姿が見られる。また、館内の一部は転用され、例年1月10日の福澤先生誕生記念会に合わせて催しが行われる展示室や、福澤先生および義塾の歴史に関する調査研究を行う福澤研究センターなどが置かれている。竣工から一世紀が経とうとする今もなお、義塾の重要な施設として活躍中だ。

開館100年を迎える今年、8月末から10月にかけて新館での記念展示が予定されている。