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[ステンドグラス] 苦難を乗り越え、未来への夢を育んだ 工学部小金井キャンパス

2012/03/05 (「塾」2012年WINTER(No.273)掲載)
小金井キャンパス正門
かつて東京・小金井に義塾のキャンパスがあった。
理工学部がまだ工学部だった頃、そして矢上キャンパスが完成する以前のことである。高度成長期にさしかかる時代に、その小金井キャンパスでは、技術立国日本の未来を担うため、塾生たちが研究に打ち込んでいた。






(小金井キャンパス正門)

空襲で日吉の校舎が焼失し 転々と仮校舎をさまよった

溝ノ口仮校舎 ※
太平洋戦争が終結する直前の1945(昭和20)年4月、空襲によって日吉キャンパスでは工学部校舎など約8割が焼失した。翌5月には三田と四谷(現 信濃町)両キャンパスも焼夷弾による甚大な被害を受けた。

同年8月15日の終戦の後、予科と各学部は、川崎の陸軍施設跡に設けた登戸仮校舎や、麻布の夜間学校の校舎を日中だけ借りた三ノ橋仮校舎などに分散して再出発した。

中でも校舎の確保で苦しんだのが、工学部であった。戦争は終わったものの、日吉キャンパスの焼け残った校舎や寄宿舎は、9月に米軍に接収されてしまったのである。そのため工学部は、10月初旬に目黒の旧海軍技術研究所内へ移り(目黒仮校舎)、さらに翌年6月には川崎市の日本光学工業工場内の国有地へ移転した(溝ノ口仮校舎)。

工学部がようやく仮校舎を脱したのは、横河電機製作所の工場だった小金井の土地に移転した1949(昭和24)年3月のことである。他にも志木と溝ノ口が候補地にのぼったが、環境と利便性を考慮して小金井が選ばれた。

老朽化した建物を校舎に 塾生は研究に打ち込んだ

小金井キャンパス校舎群 ※
小金井キャンパスは、現在のJR武蔵小金井駅の南に位置し、小金井市前原町と府中市浅間(せんげん)町にまたがる敷地はグラウンドを合わせて約6万平方メートルの広さがあった(借地を含む)。

工場の建物を改修した校舎を機械工学、電気工学、応用化学の各学科に割り当て、同年4月には授業が始まった。しかし、戦後しばらくのことで義塾の財政も苦しく、なかなか設備が整わない。数が不十分な椅子と机は、機械工学科の工作実習として塾生と教職員が手作りし、各教室に配置した。また、戦後の工学部復興に多大な功績を残した丹羽重光(にわ しげてる)学部長は、防空壕が掘られた広場を整備してグラウンドにするため、自ら塾生と共にローラーを引いたという。
小金井キャンパスでの実験の様子 ※
その開設から20年を経た1969(昭和44)年の小金井キャンパスの様子を、本誌『塾』がレポートしている。

「戦前の工場であった敷地の入口に立つ門柱も古び、武蔵野の象徴である欅の緑の枝が空に向かって拡がっていた。工場を改修した研究室に一歩入ると、そこは全く異質の世界であった。所狭いまでに並べられた実験台、薬品、ガラス器具、測定機器類、資料等々。ガスバーナが炎を吹き、うだるような暑さの中で若い研究者が真剣に研究を進めていた。(略)崩壊寸前で、支柱でやっと立っている校舎の中で、爆発的な研究のエネルギーが満ち充ちている印象を受けた」(『塾』1969年10月号)

工場跡を転用した不便な校舎だが、工学部の塾生と教職員は、高度成長を背景に技術革新と情報革命が叫ばれていたこの時代に、未来を求めて勉学と研究に打ち込んでいた。

現在の地図で見る小金井キャンパスの跡地
しかしながら、1年生が一般教育課程を学ぶ日吉から遠く、建物の老朽化も著しいため、日吉復帰を望む声が次第に高まった。そして日吉矢上台への工学部移転が完了した1972(昭和47)年、小金井キャンパスは主たる役割を終えたのである。

その後、跡地の一部が小金井グラウンドとして利用されていたが、1992(平成4)年度末までに、すべての土地と施設は、義塾の手を離れ、今は住宅地となっている。

理工学部の前身「藤原工業大学」

藤原銀次郎像
2014(平成26)年、理工学部は創立75年を迎える。その起源は藤原銀次郎が私財を投じて1939(昭和14)年に日吉キャンパス内に創立した藤原工業大学である。藤原は1869(明治2)年生まれの塾員で、戦前に王子製紙社長を務め、「製紙王」と呼ばれた経済人である。創設前から義塾への寄付が約束されていた同大学は、1944(昭和19)年に慶應義塾大学工学部となった。このような経緯から、1948(昭和23)年には藤原記念工学部と呼称することが決められている。

なお、工学部が現在の理工学部に改組されたのは1981(昭和56)年のことである。

※写真提供:福澤研究センター