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[ステンドグラス] 福澤諭吉と大阪

2008/10/21 (「塾」2008年AUTUMN(No.260)掲載)
福澤諭吉先生が生まれ、青年時代に適塾で学んだ地・大阪。
また、明治6年11月から約1年半にわたり開設された「大阪慶應義塾」など、大阪は、福澤先生だけでなく、慶應義塾にとってもゆかりの深い地である。
徳川と明治の激動の時代を生きた福澤先生の青年時代を、大阪の地に辿ってみる。

大阪で生まれた福澤先生

福澤諭吉誕生地記念碑
福澤諭吉誕生地記念碑
「福澤諭吉誕生地」と小泉信三元塾長の筆で刻まれた記念碑(大阪市福島区)。福澤先生が生まれたときの様子とその時代背景を、「幕末明治の大教育家福澤諭吉こゝに生る」ではじまる碑文が伝えている。「父百助は、(中略)妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時『これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする』と語ったと伝えられてゐる。封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを仏門に入らしめる以外はなかったのであらう。当時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が予見し得たであらうか。」

父百助の急死で郷里中津へそして長崎から再び大阪に

大阪にあった豊前中津藩(現在の大分県中津市)の倉屋敷で生まれた福澤先生だが、生後わずか18カ月で父と死別。母や兄姉と共に中津に帰った先生にとって、封建門閥制度の束縛は、学問修行に打ち込みたいという志にも大きな壁となっていた。しかも「中津の藩地に横文字を読む者がいないのみならず、横文字を見たものもなかった」と、『福翁自伝』に記している時代のことである。

蘭学を志して長崎に出たのは安政元(1854)年。しかし中津藩家老の子・奥平壱岐の奸計により翌年には長崎を去ることになる。江戸に出るつもりで大阪に来たときに、兄にすすめられ緒方洪庵の蘭学塾に入門。安政2年3月、22歳の時である。

学問だけでなく人格・思想をも形成した適塾時代

重要文化財に指定されている適塾の遺構
重要文化財に指定されている適塾の遺構
2階の塾生大部屋
2階の塾生大部屋
当時の大阪は経済・商業のみならず蘭学が発展しており、福澤先生は、過書町(現・大阪市東区北浜3丁目)にあった医家・緒方洪庵の蘭学塾「適塾」で学び始めた。塾生の勉強は適塾の蔵書を解読することに尽きる。その時唯一頼りになるのが「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた写本の蘭和辞書で、これが適塾に1冊しかない。この辞書が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生がおしかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、上手に訳せると名簿に白丸、失敗すると黒丸、特に上手にできた者には白い三角が付され、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。こういった学習法は、初期の慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。

塾生の多くは苦学生で、遊びといえばたまに酒を飲んだり、道頓堀川を散策する程度。「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」(『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだ。
後に福澤先生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱している。立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことをすすめたのだ。
適塾姓名録に記された福澤先生の名
適塾姓名録に記された福澤先生の名
そして、情愛にあふれた師・洪庵との出会いは、福澤先生の弟子たちに対するあたたかみに満ちた教育姿勢の原点といえるだろう。先生が適塾在塾中に腸チフスに罹った際、投薬に迷った洪庵の苦悩はさながら実の子に対するものだったことなど、忘れがたい思い出となっている。門閥のない実力主義で、寝食を共にし、塾生の適性を自由に伸ばした適塾の生活は足かけ4年。福澤先生のその後を形づくっただろうことは想像に難くない。その後、先生は藩命で江戸に出て、築地鉄砲洲の奥平家中屋敷の小さな長屋で蘭学塾を開く。安政5(1858)年、福澤先生25歳。これが慶應義塾の起源である。

大阪慶應義塾の設置

福澤先生が築地鉄砲洲に蘭学塾を開いてから15年。世は幕末から明治に移り、慶應義塾は洋学を志す者がこぞって目を向けるほどの人気であった。そこで義塾では、東京に出て来られない人々の意欲に応えるため、地方に分校を設置することとなる。その第1号が設置されたのが、大阪の地だった。

大阪慶應義塾は、英文学、算術、訳書の3学科を置き、荘田平五郎、名児耶六都、岩田蕃らが交代で英書、訳書、洋算、和算の出張授業にあたった。

しかし、明治6年11月に開設した大阪慶應義塾は2年足らずで閉校。「慶應義塾学報」第41号(明治34年6月刊)掲載の懐旧談によれば、「東京大阪の交通稍便なるに従ひ、郷里より大阪に出づる学生は、其費用東京に来学すると左程の相違なきが為め、追々本塾に入るもの多く」と、設立当初の目的が急速に失われたことが記されている。

大阪慶應義塾は閉校の後、徳島慶應義塾に引きつがれた。また、明治7年2月には京都慶應義塾も設置されたが、いずれも短期間であった。
リバーサイドキャンパスのある「ほたるまち」界隈
リバーサイドキャンパスのある「ほたるまち」界隈
2008年春、福澤先生の原点を辿ることができる地に、「慶應大阪リバーサイドキャンパス」が開設された。福澤諭吉誕生地記念碑がある大阪大学病院跡地の再開発地域ほたるまち(大阪市福島区)に位置し、各種セミナー・講座等を展開していく予定である。大阪慶應義塾開設からおよそ130年。再び大阪の地に設置された義塾のキャンパスは、福澤先生の志を継ぎ、これからの時代を拓く人々の新たな拠点となっていくことだろう。