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[ステンドグラス] 福澤諭吉の散歩道

2008/07/01 (「塾」2008年SUMMER(No.259)掲載)
居合、米つき、そして散歩。福澤先生が健康維持のために行っていた3つの日課は、よく知られている。このうち、還暦の頃からはじめて大患の後も継続していたのが散歩である。1里半ほどの散歩には、いわゆる「散歩党」と呼ばれる塾生や塾員が随行し、党員たちは晩年の先生からさまざまな教えを受けたという。

寒暑風雨に関わらずかかさなかった早朝の散歩

「先ず獣身を成して後に、人心を養え」と説いていた福澤先生。どのような事情があっても人間はまず身体の健康が第一であると考え、自身の健康維持・管理のために居合の鍛錬や米つきを毎日欠かさなかった。居合、米つきと並んで健康維持のための日課としていたのが、早朝の散歩である。尻をはしょった和服にももひき、ハンチング帽という服装で、長い竹の杖をつき、当時は人家もまばらな郊外だった芝の三光町(現在の白金三光町)あたりに向けて出発。広尾を経て、目黒で折り返し、古川橋経由で帰ってくる1里半ほどのコースを、1時間あまりをかけて、雨が降っても雪が降っても欠かすことなく歩いていた。

「早起与学生諸子散歩」
一点寒鐘声遠伝  半輪残月影尚鮮
草鞋竹策払秋暁  歩自三光渡古川
(一点の寒鐘こえ遠く伝う、半輪の残月かげなおあざやかなり、草鞋竹策秋暁を払い、歩みて三光より古川を渡る)

これは、福澤先生が明治30年の晩秋に詠んだ詩である。この散歩は明治28~29年頃からはじまり、明治31年9月に脳出血で倒れた後はしばらく中断していたが、翌年の10月頃から再開し、明治34年1月まで続いた。

晩年の福澤に接する貴重な機会として

福澤先生を囲む塾生
福澤先生を囲む塾生
この散歩は、学生にとっては晩年の福澤先生と接する数少ない機会でもあった。塾生全体から見れば極めて限られた人数ではあったが、毎朝の散歩に随行し、その中でいろいろな教えを受けることができたのだ。少ないときは数名、多いときは20名ほどの塾生、卒業生がぞろぞろと先生に同行した。先生は彼らを指して「散歩党」と称し、特に親しくしていたといわれる。

時事新報社社長を務めた小山完吾は、『福澤諭吉選集』(旧版)第八巻付録に寄せた文章で、自らを散歩党の草分けだと語る。小山によると、福澤先生は当初1人で朝の散歩を行っていたそうだ。あるとき先生が三田演説会で健康と運動の話をされた折、「若い者が朝寝坊をしているようなことでは駄目だから」と、自ら が健康法として行っている朝の散歩への同行者を募った。大部分の塾生はその誘いを聞き流していたが、小山は寄宿舎の友人である本田一太郎に誘われて翌朝2人で散歩をしていた。その道中、白金の雷神山あたりで福澤先生に出くわし、「これから一緒にやらないか」と誘われて翌日から同行することになったのである。以降、次第に参加者が増えて「散歩党」が形成されていく。散歩党には小山の他、後の北海道炭鑛鉄道社長である磯村豊太郎や、電力の鬼・松永安左エ門、 電力王・福澤桃介、そして、経済学者・高橋誠一郎などの顔も見られた。

誰よりも早起きだった散歩党の党首

塾生と散歩する福澤先生
塾生と散歩する福澤先生
党首である福澤先生は誰よりも早く起き、党員たちを起こして回った。まず玄関でドラを鳴らして三田山上の塾生を集め、連れ立って門から出る。そうすると、町の下宿などにいる者が一行を見かけて飛び出し、仲間に加わる。
「何か胃の中に入れておかないと体に悪い」と、先生が袂から取り出した菓子パンや煎餅などを、党員たちに1個ずつ与えていくのが毎朝の例だ。いつも来る塾生が寝坊をして顔を見せないと、先生自らその軒先までいって怒鳴る。中にはあわてて着物をひっかけて顔も洗わずに転げだしてくる者もあった。福澤先生は、「顔も洗わずに飛び出してきて、お菓子を食べるんだよ」などと、朝食を囲む家族に楽しそうに散歩の様子を語っていたそうである。

当時三井物産で働いていた磯村豊太郎は、散歩コースの途中に位置する借家に住んでいたが、毎朝5時頃になると福澤先生が訪れ、寝室の板壁を太い杖で叩いて起こされていた。ほぼ毎日のことなので、そのうち壁に穴があき、さらにそこから先生がのぞき込むために閉口してしまい、とうとう引っ越してしまったという話もある。

福澤先生と散歩党との、あたたかな師弟関係

三田山上にあった福澤先生本宅
三田山上にあった福澤先生本宅
高橋誠一郎が散歩党に加わったのは、先生が最初の脳出血から回復し、ぼつぼつ散歩を再開するようになった明治32年の秋ごろのことである。日本経済新聞に連載された「私の履歴書」の中で、高橋は散歩党を次のように回顧している。

「私どもは三田の山の上を何度もぐるぐると回った。先生は歩きながら、絶えずペチャクチャしゃべっておられる。実に饒舌多弁だ。私の名前を聞く、郷里はどこかと聞く、親のことを聞く、学校の話をする、いろいろな説法が始まる。一時間ほど歩き続け、しゃべり続けて、福澤家の玄関の前で別れ、私は寄宿舎へ帰った。…散歩仲間の数はしだいに増えた。私のような少年も数名まじっていたが、大学生のほかに、この学校の先輩かと思われる相当年配の人たちも四、五人見えた。先生は人数が増えるにつれて、だんだん大きな袋に入れた駄菓子や煎餅を用意された。話題は子供っぽいものから、おとな向きのものまで、複雑多岐だった。先生はこれらのものに一々自説をさしはさまれた」

このように、散歩中に行われる福澤先生の"ふだん着"の談話は、自由自在、天真爛漫できわめて興味深く、この話を聞くために散歩に加わる者もあったという。また時折、散歩党のために広尾の別邸で朝食会を催したり、餅つきに誘ったり、あるいは顔色の優れない塾生に懇々と医者を薦めたりということもあり、散歩党は先生の細やかな気遣いに直に触れる機会も多かった。前出の小山完吾は先生の人柄に感銘を受け、「実に率直で親身で、子弟を愛するの情が溢れんばかり」と語っている。ちなみに、朝食会などの予告が出ると希望者が続出して散歩党は大いに繁盛したそうである。

明治34年2月3日、福澤先生は三田山上の自邸で永い眠りにつかれた。死因は、再発した脳出血である。早朝の散歩はその直前まで続いていた。散歩、そして散歩党を愛した晩年の福澤先生。先生の思想と人柄に触れた散歩党の面々は、やがて日本の先導者として育っていくのである。