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[ステンドグラス] 福澤諭吉の好奇心 ~身近で意外な福澤先生の足跡~

2007/01/15 (「塾」2007年WINTER(No.253)掲載)
福澤諭吉は3度の西欧体験をベースとして旺盛に西洋文明の紹介に努めた。
その領域は教育、思想、経済、科学技術から、生活文化に至るまで多岐に渡っている。
ここでは、「日本で初めて」をキーワードに現代に生きる私たちの生活にも身近である
意外な分野に残された福澤先生の足跡をたどってみたい。

複式簿記 を日本人に紹介し、多くの簿記用語を和訳。

福澤先生の『帳合之法』は、アメリカの商業学校で簿記の教科書として使われていた『Bryant&Stratton's Common School Book-keeping』を翻訳したものである。その「単式簿記編」が1873(明治6)年に、翌年には「複式簿記編」が刊行された。「貸方」「借方」などの簿記用語は、この翻訳書がもとになっている。

なお、1860(万延元)年、最初に渡米した際にウェブスター辞書とともに持ち帰った『華英通語』に、福澤先生がかなで発音と和訳を入れ、日本人向けに改訂した『増訂華英通語』を刊行したが、すでにこの中に多くの簿記用語が記載されている。福澤先生は簿記=会計学の重要性を、わが国でもっとも早い時期から認識し、社会に広めようとしていた人物といえるだろう。

人力車発明のヒント となったアメリカみやげの乳母車。

現代のタクシーに相当する明治期を象徴する公共交通機関といえば、人力車が思い浮かぶ。この”ジャパン・オリジナル“の乗り物を発明したのは、東京在住の旧福岡藩士ら数名と伝えられている。そして、彼らが人力車を開発するヒントとも言われているのが、1867(慶應3)年に福澤先生がアメリカから持ち帰った乳母車(写真)。なお、この乳母車は、現在も三田キャンパス図書館旧館に保管されている。

日本で初めて新聞に 天気予報 を掲載。

1882(明治15)年に福澤先生が創刊した『時事新報』は、1888(明治21)年3月23日、日本で初めて新聞紙上に天気予報を掲載した。時事新報は創刊翌年の1883(明治16)年4月4日より「天気報告」として前日の天気を掲載。1884(明治17)年には国家事業として天気予報がスタートし、時事新報が他紙に先駆けて、これを掲載。しかし、この意欲的な試みがなかなか庶民に馴染まれなかったため、1893(明治26)年元旦の紙面より、イラスト入りの天気予報(写真参照)をスタートさせ、これは大いに好評を博した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖といえるだろう。

西洋の手帳 を持ち帰る。

1862(文久2)年、福澤先生は文久遣欧使節団の随員(傭通詞=通訳)として渡欧した際、最初の訪問国フランスのパリで、一冊の手帳を購入した。この手帳には、ヨーロッパ滞在時の見聞を書き記され、帰国後に『西洋事情』などの著書執筆のベースとなる重要な記録となった。福澤先生が「西航手帳」を購入したフォルタン文具店(Fortin Papeterie)の建物はパリ市内に現存しており、会社自体はパリ郊外北西のクリシーに移転し、フランス有数の総合事務機器メーカーとして現在も営業中。

動物園 の訳語を作り、これを紹介する。

1866(慶應2)年発行された『西洋事情』初編巻之一「博物館」の項に次のような記載が見られる。「又動物園、植物園なるものあり。動物園には生(い)きながら禽獣魚虫を養えり。獅子、犀(さい)、象、虎、豹(ひょう)、熊、羆(ひぐま)、狐、狸、猿、兎(うさぎ)、駝鳥、鷲、鷹、鶴、雁、燕、雀、大蛇、蝦蟇(がま)、総て世界中の珍禽奇獣皆この園内にあらざるものなし」     

福澤先生はヨーロッパでの見聞をもとにこの文章を書いたが、当時、日本にはまだ動物園は存在しておらず、”動物園“という言葉が使われたのもこれが初めてのことだと言われている。

日本で初めて近代的な 保険制度 を紹介。

1867(慶應3)年に刊行された『西洋旅案内』は、3度の欧米への旅を経験した福澤先生が、その経験を活かして西欧への旅に欠かせない知識を紹介した本格的な西洋旅行の手引き書。そして外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。当時はまだ保険という訳語がなく、「災難請合の事 インシュアランス」という項で、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(損害保険)の3種の保険制度について紹介している。

日本の学校として初めて 授業料 を設ける。

日本で初めて毎月の「授業料」を徴収した学校(私塾)が慶應義塾だったということをご存じだろうか。1868(慶應4)年、福澤先生は鉄砲洲に戻っていた私塾を、再び芝・新銭座に移転。心機一転、慶應義塾と命名した塾には多くの生徒が集まり、塾舎の管理のために塾則が作られた。「ソレにはいろいろ箇条のある中に、生徒から毎月金を取るということも、慶應義塾で始めた新案である」(『福翁自伝』〈王政維新〉授業料の濫觴)。授業料という言葉も福澤先生の発案である。それまでの私塾は、入学時に金銭を納めた後は、盆暮れの年2回、熨斗をつけて先生に付け届けをすることが一般的な習慣だった。しかし、福澤先生は、慶應義塾を、社中共有のものであるという経営思想と授業料収入による経営の合理化によって、近代的な教育機関としての慶應義塾を確立した。

福澤先生の大病が絡んだ 製氷器 事始め。

1870(明治3)年5月中旬、福澤先生は、発疹チフスを患い高熱を発し、一時は重篤な状態に陥った。夏のため治療に必要な氷を入手することは困難で、先生の病状を案じた塾生たちは、自ら治療に必要な氷を造ろうと、元福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)公が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校(後の東京大学)の宇都宮三郎教授のもとで、わが国で初めて機械によって氷を製造した。

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