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[ステンドグラス] 封建の世に記した先覚者としての第一歩 ~福澤諭吉の幼少期をたどる~

2006/10/15 (「塾」2006年AUTUMNR(No.252)掲載)

中津藩の下級武士、福澤百助の次男として大阪で生まれた福澤諭吉。
物心のつかないうちに父を失なうという不幸に遭いながらも、
母に連れられ帰国した豊前・中津で「厳ならずして家風正し」い家庭環境でのびのびと育った。
『福翁自伝』に記された諭吉少年の姿を頼りに、近代日本の先導者・福澤諭吉のルーツを確かめたい。

下級武士の次男として大阪で誕生

1835年1月10日(天保5年12月12日)、福澤諭吉は大阪・堂島の玉江橋北詰(現・大阪市福島区)にあった豊前・中津藩蔵屋敷で、この蔵屋敷に務める福澤百助(43歳)と妻・順(31歳)の次男として生まれた。やせてはいたが、大きく骨太の赤ん坊で、産婆から「この子は乳さえたくさん飲ませれば必ずみごとに育つ」と聞いた父は大いに喜んだという。

父・百助は、「足軽よりは数等よろしいけれども、士族中の下級」(『福翁自伝』以下、注記しない引用は同書より)といった身分で、商人を相手に米の取引や藩の借財を扱う職務にあった。通常2〜3年で交代になる勤番だったが、実直さと有能さを買われて結局大阪在勤は15年に及び、下級武士としては最上級の家格にまで昇進している。また、百助には儒学者としての一面もあった。学者仲間との交流や読書を何よりも楽しみにし、蔵書は1500冊にも達したといわれている。福澤先生が誕生したその日、百助はかねて探していた清朝・乾隆帝治世下の法令集『上諭条例』をようやく入手し、その書名から一字をとって「諭吉」と命名。福澤先生は生誕時より「学問」と深い縁で結ばれていたといえよう。

しかし、福澤家の一家七人そろっての平穏な日々は長くは続かなかった。1836(天保7)年、百助が44歳で急逝。生後わずか18カ月で父を失った福澤先生は、母や4人の兄姉とともに藩地・中津(現在の大分県)へ赴くことになる。

父の死後、豊前中津へ

現在、中津市留守居町に史跡として保存されている「福澤旧居」は、福澤先生が17歳の頃、母の実家から購入し、移転した家屋で、それまでは道路を隔てて斜め筋向かいにあった間口2間半・奥行5間の門構えもない小さな家に住んでいた。大阪勤務で15年間留守にして荒れ果てていたその家を、「頼母子講」(たのもしこう)(当時の庶民の間で行われてい た相互扶助システム)によって集まった資金で何とか修繕し、中津での母子6人の生活が始まった。ちなみに、大阪滞在中の留守宅が近所の子供たちの遊び場にならないよう、大人たちは「血槍屋敷」という怪談話を作り上げていたらしい。

「私どもの兄弟五人はドウシテも中津人といっしょに混和することができない。(中略)わたしの兄弟はみな大阪ことばで、中津の人が『そうじゃちこ』というところを、わたしどもは『そうでおます』なんという わけで、お互いにおかしいからまず話が少ない」。言葉だけではなく、髪型や衣服なども土地の人々とは異なり、次第に家の中で過ごすことが多くなったという。「至極活発でありながら、木に登ることが不得手で水を泳ぐことが皆無できぬというの も、とかく同藩中の子弟とうち解けて遊ぶことができずに孤立したせいでしょう」

しかし、こうした境遇の中でも「厳重な父があるでもないが、母子むつまじく暮らして、兄弟げんかなどただの一度もしたことがな」く、折に触れて母から聞かされる父の高潔な人格を尊敬していたのである。
中津の福澤旧居
中津の福澤旧居
福澤旧居土蔵(2階)。諭吉少年が自分で手直しをし窓辺で学問を続けた。
福澤旧居土蔵(2階)。諭吉少年が自分で手直しをし窓辺で学問を続けた。

人より遅れて学問の道へ

貧しい生活の中、母・順はなかなか次男の教育のことまで手が回らずにいた。諭吉少年は手先が器用なうえ「物の工夫をするようなことが得意」で、畳表の付け替え、障子の張り替え、根の修理などの手伝いや内職で母を助けていたが、学問のスタートは他の藩士の子弟より遅く、「 手習もしなければ本も読まない。ねっからなんにもせずにいた」。しかし、「一四か一五になってみると、近所に知っている者は皆本を読んでいるのに、自分ひとり読まぬというのは外聞が悪いとか恥ずかしい」と一念発起し、儒学者が教える塾に通い始める。たちまち学問の才を発揮し、『孟子』や『論語』の会読では師を上回るほどの理解力を示すようになり、以後、多くの漢籍を読みあさった。特に『春秋左氏伝(左伝)』を得意とし、「たいがいの書生は左伝十五巻のうち三、四巻でしまうのを、わたしは全部通読、およそ十一たび読み返して、おもしろいところは暗記していた」と語っている。

だが、いくら学問ができても、藩士の身分の高低に厳しかった中津藩では栄達の道下級武士の次男として大阪で誕生封建の世に記した先覚者としての第一歩中津藩の下級武士、福澤百助の次男として大阪で生まれた福澤諭吉。物心のつかないうちに父を失なうという不幸に遭いながらも、母に連れられ帰国した豊前・中津で「厳ならずして家風正し」い家庭環境でのびのびと育った。『福翁自伝』に記された諭吉少年の姿を頼りに、近代日本の先導者・福澤諭吉のルーツを確かめたい。は望めない。藩の重職に就き経済的にも恵まれていた上士に対し、福澤家のような下士は有能でも出世の道は限られ、上士との婚姻も許されず、日頃の言葉遣いにも貴賤の区別がはっきりと表れていた。こうした門閥制度は子供同士の付き合いにも及んでおり、それに対する反抗心と、下士ゆえに名を成すことなくこの世を去った父への思いから、「門閥制度は親のかたきでござる」という自伝中の有名なフレーズが生まれたのである。生前の父には、次男諭吉を身分に関係なく栄達の道が開かれていた僧侶にする考えもあったという。福澤先生は父の心中を察し、「その愛情の深き、わたしは毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤るとともに、亡父の心事を察してひとり泣くことがあります」と述べている。中津の人々に向けて書かれた『学問のすゝめ』初編冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言へり」は、少年時代の門閥制度に対する憤りが普遍的な思想に昇華したものともいえるだろう。

既成の権威への批判精神は、当時の因習や迷信にも向けられた。12〜13歳の頃、中津藩主の官名が書かれた紙を不注意で踏みつけ、兄から厳しく叱責された諭吉少年は、その場は謝ったが、心の中では納得できない。そこで「神様の名のあるお札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所でお札を踏んでみたところが、なんともない」。その後も、お稲荷様の御神体の石を入れ替えるなど、神仏の罰が道理に合わないことを実証的に確かめる"いたずら"を行っている。封建社会の身分制度や因習に対する子供らしい批判精神と自ら確かめる実証主義の姿勢……。わが国に近代の思想をもたらし、近代日本の先導者として活躍した福澤先生の第一歩は、中津での少年時代まで遡ることができるのである。

生涯を通した故郷への思い

現在の中津
現在の中津
19歳になった諭吉青年は「故郷を去るに少しも未練はない。こんな所にだれがいるものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰って来はしないぞ」と長崎遊学に向かった。しかし、その後生涯に7回、福澤先生は中津の地を訪れている 。

明治維新後の1870(明治3)年には、母を東京に迎えるため帰郷し、2週間ほど滞在した。この時、藩の重役から意見を求められ、武備の全廃と洋学校(中津市学校)設立を訴えるとともに、維新後の新しい社会を築く故郷の人々へのメッセージ「中津留別の書」を起草。この書には、自由と独立の精神の大切さ、「人倫の大本は夫婦」とするおそらく日本で初めての一夫一妻論、そして学問と書を読むことの必要性などが説かれている 。

1894(明治27)年、2人の息子を連れての墓参りが福澤先生にとって最後の帰省となった。その際、近郊にある耶馬渓を訪問。絶景を誇る競秀峰の土地が売りに出されていることを聞き、名勝保存のため一帯の土地約120アールを買い取っている。複雑な思いを抱きながらも、中津の地が、生涯、福澤先生のかけがえのない故郷であったことは間違いないだろう。