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[ステンドグラス] アインシュタインと慶應義塾

2005/10/18 (「塾」2005年AUTUMN(No.248)掲載)
20世紀最大の物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が、「特殊相対性理論」を含む3つの論文を発表した奇跡の年=1905年。
ちょうど100周年となる今年は、国連によって「世界物理年」が宣言されている。
アインシュタイン博士は、1922(大正11)年に来日しているが、
日本で最初の講演を行ったのが、三田の慶應義塾だったことをご存じだろうか。

- 日本中が熱狂したアインシュタイン博士来日

 アインシュタインの日本講演旅行を企画したのは、当時の知識人から大きな支持を得ていた総合雑誌『改造』の出版元である
改造社社長・山本実彦(さねひこ)だった。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の著作によって極東の美しい島国・日本に対して少なからぬ関心を抱いていたアインシュタインは、山本の依頼を快諾。1922(大正11)年10月8日、43歳のアルベルト・アインシュタイン博士と妻エルザは、日本郵船「北野丸」でマルセーユを出港した。11月10日、スウェーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会がアインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞を授与することを発表し、博士は船上でこの朗報に接した。このニュースは、日本国内で世紀の天才物理学者に対する熱狂をさらに過熱させ、11月17日に神戸港に到着した博士は予想外の大歓迎を受けることになった。そしてその後、彼が訪問する日本の各都市でアインシュタイン旋風ともいうべき一大ブームが吹き荒れたのだ。

- 日本での初めての講演に際して細心の注意をもって臨む

 日本上陸当日は京都に宿泊したアインシュタイン夫妻は、翌日、午前9時15分の特急で東京に向かった。その日は晴天に恵まれ、夫妻は車窓から琵琶湖や富士山の風景を楽しむことができたという。東京駅着は午後7時20分。駅改札内外は歓迎の人々であふれ、身動きも取れないほどだった。ようやく宿泊先の帝国ホテルに到着したアインシュタインは、夜遅くまで慶應義塾での講演会で通訳を務める理論物理学者石原純博士と、講演に関する打ち合わせを行った。
 翌19日、アインシュタイン来塾。講演会場は1915(大正4)年6月に竣工した三田山上の大講堂だった。通称” 大ホール“と呼ばれたこの施設は、現在の三田キャンパス西校舎の南側に位置しており、慶應義塾の主な式典のほか、市民にとっての文化
センター的役割も果たしていた(1945(昭和20)年5月の大空襲により焼失)。
 アインシュタインは当日朝から刺激物やコーヒーや紅茶をとらず、来客もできるだけ断り、平静な精神で机に向かって講演内容の構想を練っていたという。ただし、その構想は簡単なメモ書き程度のものだったらしい。というのも、前日に石原博士が通訳をスムーズに行うため、事前に大まかな講演原稿の用意を依頼したところ、アインシュタインはこう答えているからだ。「前もって原稿を作っておくと思想が固定していけない。やはり聴衆の顔を見てその場で自由な心持ちで講演したい」(金子務『アインシュタイン・ショック』岩波現代文庫より)
 そして壇上に立ったアインシュタインの前には、大ホールを埋め尽くす学生、市民、慶應義塾の関係者ら、およそ2千数百名の聴衆がいた。2階の招待席には、文部大臣就任直後の慶應義塾前塾長・鎌田栄吉のほか、土星型原子モデルの提唱者である長岡半太郎をはじめとする戦前の日本を代表する物理学者たちの姿も見られた。
アインシュタイン夫妻
アインシュタイン夫妻
講演が行われた三田大講堂
講演が行われた三田大講堂

- 2千名の聴衆を前にして5時間におよぶ「熱演」

 アインシュタインは、午後1時半から4時半までの約3時間、ジェスチャーを交えながら「特殊相対性理論」の説明を行った。1時間の休憩の後、再び5時半からおよそ2時間かけて今度は「一般相対性理論」について講演。前日に新聞に掲載した講演の告知広告に「注意・同講演はアインスタイン教授の希望に依り長時間にわたる見込みなれば、パンの用意ありたし」と記された通りの長時間講演だった。当時の読売新聞によると、聴衆はアインシュタインの「金鈴を振るやうな音楽的な」声に酔わされ、最後まで静かに、熱心に聞き入っていたという。
 慶應義塾での講演概要は、わが国初の大学学生新聞『三田新聞』大正11年11月21日付に「特殊及び一般相対性原理論に就ての概論——私の相対性理論には特殊相対性理論と一般相対性理論がある——」という見出しで約半ページの記事として掲載されている。また、『改造』の翌年1月号に、通訳を務めた石原純による講演内容のまとめが掲載され、その記事は1933(昭和8)年に発行された『アインスタイン教授講演録』(改造社刊)に収録されている。同書には、アインシュタインの講演録のほか、アインシュタイン自身が筆をとった日本感想記、講演旅行に同行した漫画家・岡本一平(芸術家・故岡本太郎の父)によるスケッチと文章が付されており、慶應義塾は岡本氏本人からの寄贈本を所蔵している。
改造』1月号
改造』1月号
岡本一平氏より寄贈された、『アインスタイン教授講演録』(改造社刊)
岡本一平氏より寄贈された、『アインスタイン教授講演録』(改造社刊)

- アインシュタインと日本 その後歩んだ道‥‥‥

 慶應義塾での講演会を終えたアインシュタインは、11月24日に東京・神田の基督教青年会館で講演し、さらに11月25日より東京帝国大学で6回連続の学術講義を行った。その後、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡で各1回の一般向け講演を行っているが、多忙な日程の合間に夫妻で日本の風土や自然に触れたり、全国の学生たちと交流の時を楽しむことができたようだ。そして12月29日、 福岡県門司港より日本郵船「榛名丸」に乗船し、帰国の途に就いた。43日間の日本滞在中、アインシュタインは日本の風土と人々を深く愛し、日本人も彼の偉業を尊敬するとともに、飾らないその人柄を愛した。
 しかし、その後、両者にとって不幸な時代が待ち受けていた。ドイツでヒトラーが政権を握った1933(昭和8)年、ユダヤ人であったアインシュタインはアメリカへ亡命。そして1945(昭和20)年8月6日・9日に広島と長崎に原爆が投下された。原爆は物質がエネルギーに変換するという特殊相対性理論の公式「E=mc2」を兵器として具現化したものであった。アインシュタインはこの人類史上初の悲劇に接し、「Oh、weh!(ああ、なんたることだ!)」と嘆き、絶句したという。後に彼はこう語っている——「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。それはルーズヴェルト大統領に原子爆弾を作るように勧告した時です」(『アインシュタイン・ショック』より)。1939(昭和14)年、ナチス・ドイツの原爆開発着手を危惧したアインシュタインは、数名の科学者の代表としてアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトに原爆製造を促していた。彼は生涯このことを悔やんだ。晩年のアインシュタインは、プリンストン高等研究所において研究に取り組む一方、世界連邦の樹立を提唱するなど平和運動にも熱心に取り組んでいる。そして1955(昭和30)年4月11日には、英国の哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器廃絶と戦争廃止を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。奇しくもラッセルは、アインシュタイン来日の前年、1921(大正10)年に日本を訪れ、同じ慶應義塾の大講堂で講演を行っていた。しかし、署名から1週間後の4月18日、世界中の人々に惜しまれながらアルベルト・アインシュタイン永眠。「世界物理年」である今年は、アインシュタイン没後50周年、そして広島・長崎原爆投下60周年、第1回原水爆禁止世界大会開催から50周年でもある。