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[ステンドグラス] 慶應義塾・図書館学科の創始

2005/04/01 「塾」2005年SPRING(No.246) 掲載
戦前のわが国には、図書館について学問的に学ぶ機会も場所も存在しなかった。
極端に言えば、当時の図書館とは単に書物庫であり、
図書館員はその番人であると考えられていた。そこに学問が介在する余地はなかった。
そんな日本に図書館学という新しい学問分野をもたらしたのは、米国であった。
そしてその拠点となったのが、慶應義塾に開設された「図書館学科」である。

- 『福翁自伝』がもたらした日本初の図書館学科

<1>ロバート・L・ギトラー教授
<1>ロバート・L・ギトラー教授
 第二次世界大戦終結後、日本に駐留した米軍は、情報教育センター(CIE)を通じて、民主主義国家として再出発したわが国の学術振興計画を推進。その一環として進められたのが米国図書館協会と国防総省の共同事業で、日本の大学に図書館学科を設立し、援助するプロジェクトであった。それまで日本には、ライブラリアン(図書館員)を専門的に養成する教育機関はもちろん、利用者へのサービスや教育的役割の研究を含む図書館学という学問分野が存在していなかった。まったく新しい学問分野をどの大学でスタートさせるか……それが米国側の当面の課題となった。
 1950(昭和25)年、イリノイ大学図書館長兼図書館学校長のロバート・ダウンズ教授が、「日本図書館学校」創設のための委員長として、図書館学科設置候補と目されていた東京大学、京都大学、早稲田大学、慶應義塾大学を視察のため来日した。来塾したダウンズ教授を迎えた潮田江次塾長(当時)は、まず、わが国における官学と私学の区別を説明し、「新学科は私学に於いてこそ、その特質を発揮できる」と力説した。しかし、戦災で多大な被害を受けた慶應義塾が提供しうるものは「教室二つ」に過ぎないことも申し添え、義塾が選ばれる見込みは薄いと内心では考えていたようだ。
 翌年、今度はワシントン大学図書館学科長ロバート・L・ギトラー教授が、日本図書館学校初代主任教授として来日。再び図書館学科設立のための綿密な調査を行い、慎重に検討した結果、慶應義塾に図書館学科を設置することが決定された。
 実はギトラー氏は、慶應義塾の外事部長の任にあった清岡暎一法学部教授(当時)が英訳した『福翁自伝』を入手しており、同書を通して知った福澤諭吉の精神と日本の近代化に果たした大きな役割に深く感銘。そのことが、図書館学科設置決定の大きな要因となったのである。時代を超え、国境を超えて、福澤先生の言葉が人の心を打ち、そのことがわが国における新しい「実学」分野である図書館学の創始に結びついたのである。清岡名誉教授(故人)は当時を振り返って「結局、塾の精神的特長が物的不足よりも高く評価された」と述懐している。

- 新しい学問分野=図書館学を新しいスタイルで学ぶ

 図書館学科開設までの準備期間はきわめて短かった。規則の制定、設置認可申請、学生募集、入学試験の実施、施設の整備など……ギトラー教授と塾当局の関係者の奮闘は続き、ついに1951(昭和26)年4月、文学部図書館学科開設にこぎつけた。対外的には「日本図書館学校(JLS)」と称したが、事実上、慶應義塾大学文学部に増設された1学科であった。本来なら、他の学科と同様に1年次生を募集するところだったが、開設時の特殊事情を考慮し、初年度は第3学年への入学者を募集。1年間で専門科目を履修し、4年次には関連科目を学ぶという変則的なスタートとなった。この時の入学者は図書館アルバイト経験者、現職の図書館員なども含まれ、年齢や出身地もバラエティに富んでいた。また、和漢図書関係以外の講義はすべてコロンビア大学、米国国会図書館などから招聘した米国人教員陣が担当。もちろん授業は英語で行われ、そのため教室には教員のほか日本人通訳もいた。教材も和英両文で印刷され、つねに数十人の通訳・翻訳者が多忙を極めていたという。
 「図書館学」という新しい学問分野の内容はもちろんのこと、米国流の教育スタイルも、当時の人々にはとても斬新に感じられたようだ。前出の故清岡名誉教授は、図書館学科の教育を目の当たりにした感懐を次のように記している。
 「講義のみによらず、沢山の問題を提供して学生に自ら研究させる。宿題は多く(中略)それがかえって研究心を刺激し、先生も真剣ならば学生も真剣、(中略)教室内の討論も盛に行われ」た。さらに、「クリスマスには学生の発意で盛大な茶話会があり、クリスマスツリーを作り、ギトラー教授に赤い着物をきてサンタクロースになっていただき、歌やゲームや、全く他に見られない愉快な会であった。これだけでも日本の教育界に範を示すものと云えると思う」(『三田評論』552号/1952年2月号)
 また、夏季休暇中は、全学生がおよそ1カ月間、CIEが各地に設立した図書館で、アメリカ人図書館員の指導のもと実習が行われた。その間、学生がいない三田キャンパスでは、全国の公立図書館の館長・職員を対象にした文部省(当時)主催の講習会が行われていた。
<2>ギトラー教授をかこんで
<2>ギトラー教授をかこんで
<3>教室内で批評会
<3>教室内で批評会
<4>サマー・ワークショップ(昭和26年夏)
<4>サマー・ワークショップ(昭和26年夏)

- 日本図書館界の大恩人 ギドラー初代主任教授

 図書館学科開設から1年ほどして、日米両国間に平和条約が締結された。国家にとって大きな前進だったこの出来事は、義塾図書館学科にとっては存続の危機につながった。占領政策が終結して駐留軍が引き上げた後は、それまでアメリカ側が負担していた学科教員の給与をすべて慶應義塾がまかなうことになる……これは財政的に困窮していた当時の義塾にとって大きな問題であったからである。
 そこでギトラー博士と慶應義塾は世界各国で戦後の経済復興に取り組んでいたロックフェラー財団に援助を依頼。同財団から援助を受けた5年の間に、アメリカ人教員が次々に日本人教員と交代するなど、慶應義塾だけで図書館学科を運営できる体制を整えていった。1956(昭和31)年、ついに最後まで残ったギトラー主任教授も、後任の橋本孝教授に後を託して帰国することになった。当初は在任1年の予定でワシントン大学から休暇を取って来日したギトラー教授だが、同大学図書館学科長の地位を捨ててまで滞在を延期し、義塾図書館学科のために尽くした。慶應義塾大学は、その多大な献身に対し感謝の意を込め、離日に際して名誉博士号を贈った。ギトラー教授はその後もたびたび来日され、義塾の教育、あるいは日本の図書館界のために少なからぬ力添えをされた。そしてその教え子たちは、各地でリーダー的役割を果たすライブラリアンとして活躍し、日本の図書館界発展の原動力となっていったのである。

 2004年度、慶應義塾大学は、図書館員など専門家対象の大学院修士課程「情報資源管理分野」を開設(本誌10ページ参照)。わが国における図書館学の先駆として、高度情報化時代のライブラリアン教育に新たな地平を拓く挑戦をスタートさせた。そしてそれを見届けるように、同年10月8日、アメリカ・カリフォルニア州オークランドにてロバート・L・ギトラー氏は逝去した。享年95歳。遺言には遺産の一部を慶應義塾に寄附したいとの一節があったという。また、図書館・情報学科(現在は専攻)の成績・人物優秀者を表彰するギトラー奨学金が現在も継続されている。日本の図書館の先駆けである義塾図書館学科の基礎を築いたギトラー氏の功績は、慶應義塾社中のみならず、すべての日本人が深く感謝の念を捧げるべきものではないだろうか。