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[ステンドグラス] 世紀送迎会

2000/01/01 (「塾」2000年JANUARY(No.223)掲載)
今から99年前、三田山上の慶應義塾では、塾生主催の「世紀送迎会」という催しがにぎやかに開催されていた。
明治33年大晦日、つまり西暦1900年12月31日。まさに20世紀前夜のことである。
新世紀への前向きな意志が強く感じられるこの祭典を、今振り返る。

- 新世紀への意志を述べ、満場の喝采を浴びた「世紀送迎の辞」

 その夜、社頭福澤諭吉をはじめ、塾員、学生およそ500名が三田の大広間に集合し、午後8時に「世紀送迎会」はスタートした。司会者をつとめる萩原純一が開会の辞をのべ、続いて鎌田栄吉塾長、門野幾之進教頭らが挨拶。続いて普通部主任を務めていた林毅陸(のち塾長)が「逝けよ十九世紀」と題する世紀送迎の辞を、朗々とした声で読み上げた。
 「多事なる十九世紀は愈逝きて、洋々たる二十世紀ここに來れり。(中略)多謝す好漢ナポレオン、光輝ある十九世紀の序幕は汝に依って開かれき。・・・・」
 さらに、十九世紀の偉人たち、ビスマルク、モルトケといった政治家・軍人、ヘーゲル、ショーペンハウエル、ミルなどの哲学者、ゲーテ、テニソン、ユーゴー、バイロンなど文学者の名を盛り込みながら、林の弁舌は核心に迫っていく。その趣意は、次のようなものだった。
——十九世紀文明は自然科学の勝利であったが、科学の進歩が貧富の不平等を生むことになった。また政治上、思想上の奴隷を救うことをもって始まった十九世紀は、経済上、物質上の奴隷を作り出すことをもって終わった。十九世紀の偉人たちによって養われたけんらんたる文明の花を、見事に結実させることこそが二十世紀に生きるわれわれの責務である…。
「諸君、慶應義塾は由来文明軍の勇士を以て自任す。願ぐここに十九世紀を送りて二十世紀の新天地を迎ふるに當り、我黨の抱負をして特に明赫雄大ならしめよ」
 朗読がこのように結ばれると、学生たちは大歓声をあげて、美辞麗句に満ちた林の雄弁を称えた。
 学生の頃から三田の演説館で鍛えた美声と共に、当時の新知識をふんだんに盛り込んだその内容が、まった人々すべてをうならせる素晴らしいものだったからだ。

- 晩餐のスパイスは十九世紀に別れを告げる風刺画とパフォーマンス

世紀送迎会(『時事新報』明治34年1月2日号掲載の挿絵
世紀送迎会(『時事新報』明治34年1月2日号掲載の挿絵
 「世紀送迎の辞」朗読の興奮がさめやらぬまま、次に一同は晩餐のため新講堂に場所を移し、何人かの塾生たちが演じるパフォーマンス(余興)を見ながら食事を楽しんだ。また、パレット倶楽部員の手による風刺画が数十枚も会場に掲げられ、来会者の興味をひいた。ちなみに、これらの風刺画は三国干渉、ビクトリアの大祝典、ロシア皇帝の戴冠式など、すべて十九世紀の出来事をテーマとしていた。
 パフォーマンスも新世紀到来にふさわしく、そしてユニークな筋立てだった。十九世紀をかたどった骸骨がすでに自分の命脈の尽きたことを知り、二十世紀の童子に冠を譲ろうとする。世界の強国がこの冠を奪おうと画策するが、日本によって遮られ、結局、冠は日本の手によって童子に授けられる……。奇抜な演出が満場の喝采を浴び、拍手がしばらく鳴りやまなかったという。

- 冬の夜空に浮かび上がった「二十センチュリー」

 12時近くなって、一同は構内の運動場に移動した。そこには大かがり火がたかれ、周囲にはカンテラが林立している。まるで昼のような明るさの中に空中高く掲げられているのは「儒学者の夢」「階級制度の弊害」「蓄妾の醜態」という3点の風刺画。そのほか福澤先生の寓意による数々の風刺画も並べられ、「独立自尊」「文明の光」「四海を照らす」「社会の燈」などと大書された四角の燈明台が置かれていた。
 12時ちょうどに、教師の号令のもと学生が3枚の風刺画に向けて、5回連続して一斉射撃。同時に点火すると、3枚の画は炎をあげて燃え上がる。すると仕掛け花火によって「二十センチュリー」の文字が、冬の夜空にくっきりと浮かび上がった。十九世紀の悪弊が消え去り、めでたく二十世紀を迎えたのだ。
 この「世紀送迎会」の様子は、時事新報に絵入りで報じられ、社会的にも話題となった。

- 福澤先生没後100年新たな決意を込めて新世紀に臨む

「独立自尊迎新世紀」の語
「独立自尊迎新世紀」の語
 「世紀送迎会」当日、晩餐の席で福澤先生は終始愉快そうに談笑していたという。そして「独立自尊迎新世紀」の語を一同に示す(写真参照)。「独立自尊」とは、もちろん慶應義塾の建学の精神。その力強い筆致から、新しい世紀への希望と自信さえ感じられる見事な書といえるだろう。
 しかし、それからまもなく福澤先生は脳溢血に倒れ、明治34年(1901)2月3日に逝去される。来年、いよいよ福澤先生の没後100年を迎えるにあたり、記念事業の一つとして慶應義塾では、先生の書簡集刊行を予定しており、現在、そのための資料、情報を収集している。ぜひ、塾関係者の方方のご協力もお願いしたい。また、新世紀前夜に再び慶應義塾で「世紀送迎会」を開催することも検討している。
 はたして私たちは、どれだけ希望と自信を持って、新世紀を迎えることができるだろう……。そうした思いを抱きながら、一世紀前の「世紀送迎会」における人々の精神のあり方について、あらためて考えてみることは、大いに意義深いことではないだろうか。
時事新報

 明治15年3月、福澤諭吉の指導のもと、中上川彦次郎を社主として創刊。不偏不党を標榜し、政党機関紙時代と言われた当時、この姿勢は画期的で、実業家層を中心に部数を伸ばした。他に先駆けてロイター通信と特約を結ぶなど、今日で言うクオリティペーパーの地位を保っていたが、関東大震災で社屋全壊。
 その後販売競争に敗れ、昭和初期に東京日日新聞と合同。昭和21年再刊されたが、昭和30年に産業経済新聞(現産経新聞)と合同(事実上吸収)した。