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[ステンドグラス] 慶應義塾のシンボル

1998/09/01 (「塾」1998年SEPTEMBER(No.214)掲載)
大学に限らずほとんどの学校には、その校風や伝統を表すシンボルが存在し、
学生、卒業生、教職員に親しまれているだけでなく、
なかには社会的に高く認知されて母校のアイデンティティーや誇りとなっているものもある。
慶應義塾の代表的なシンボル、“ペンの記章”“三色旗”“ユニコン”についてそれぞれの由来を交えながら紹介してみたい。

- ペンの記章

ペンの記章
ペンの記章
義塾運動会優勝者が手にしているペンマーク入りの旗
義塾運動会優勝者が手にしているペンマーク入りの旗
 〝ペンの記章〟といえば、慶應義塾の校章として知られている。制定のいきさつは、塾生有志の間で勝手に使われだしたものが、いつの間にか塾当局が公認するところとなり、明治33年には特に大学部の塾生に対して「記章附帽子」着用のことが告示され、ついに今日に至るというもの。いかにも義塾らしい鷹揚さが感じられる。
 資料によれば「このペンの記章の創造者だと自称する人々の懐旧談によると明治18年頃のこと、塾生の有志数名がおそろいの洋服を新調し、帽子を着用するにおよんで得意然と 闊歩してみせた。ところが、当時はまだそのような服装がいたって珍しく、留学生か何かと見誤られるといった滑稽もあって、早急に帽章の必要を感じ、ちょうどそのころの教科書(詳細不明)の一つに『ペンには剣に勝る力あり 』という句があったところから、これこそ学生の記章として最もふさわしいものと考え、さっそくペンをつけることにした」という。
 なお、この「ペンは剣よりも強し」の語句も義塾のモットーとして標榜され、それを表した三田の図書館の大ステンドグラスは、義塾を象徴するものの一つとなっている。

- 三色旗

 慶應義塾の校旗(通称・塾旗)は、〝三色旗〟と呼ばれている。しかし、実際には青と赤の2色を3段に配したもので、フランス国旗のように3色からなるものではなく、また色彩についても、確な意味は不明である。
 制定の年代については、多少不明確な点があるものの、明治27年11月26日に旅順口陥落の祝賀として、塾生がはじめてカンテラ行列と行なったことが『時事新報』の28日付の記事に取り上げられており、その行列に塾旗がひるがえっていたことが記されている。また、同年12月刊の『風俗画報』第82号には、色彩こそ不明ながらペンの記章を付して三段に色分けした旗の絵と一緒にその模様が報じられている。
 このように三色旗はいつの間にか浅黄と紅を取り合わせたものとして起こり、明治30年前後から使われだしたらしい。しかし、色彩も形も色も規格まちまちであったことから、昭和39年2月14日付で「塾旗の基準について」として、塾旗の寸法と色・ペンの型・三色旗の割合とペンの位置が明確に定められ、今日に至っている。

- ユニコン

左:中等部玄関脇のユニコン 右:早慶戦のスタンドに掲げられたユニコン
左:中等部玄関脇のユニコン 
右:早慶戦のスタンドに掲げられたユニコン
 ユニコンとは〝1つの角〟の意味で、ギリシャ神話に出てくる架空の動物"一角獣"のことである。この像がどういうわけか、かつて三田山上にあった大ホールの関東大震災による損傷修理に際して、その3階バルコニーに一つがいが取り付けられることとなった。なぜ取り付けられたのか、その理由は定かではないが、グロテスクともいえる容貌ながら、意外と 愛嬌もあって、いつしか教員にも塾生にも親しまれるようになったらしい。
 この大ホールは太平洋戦争で被災し、残骸も取り壊されて、ユニコンともども今は残っていない。ところが昭和37年の早慶野球戦にそれまで使われていたミッキーマウスに代わって、このユニコン像を模した飾りが新たに登場し、応援に気勢を添えることとなった。しかも、このときの早慶戦に勝って塾がめでたく優勝したことから、以来ユニコンは塾生のマスコット的存在となった。そして、一対の像のうち、一方は昭和50年に中等部卒業生の手により 修復、他方は昭和53年に慶應商工部同窓全の手によって復元され、現在も三田中等部の玄関の両脇で毎日中等部生の登下校を見守っている。

ユニコン番外編

北極海のみに生息する鯨の仲間「イッカク」の左上顎歯
北極海のみに生息する鯨の仲間「イッカク」の左上顎歯で、一本だけ角状に長く突き出ている。中世ヨーロッパでは「ユニコン」の角であると称して珍重されていた。(平成3年 萩原次郎氏より贈呈)