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[ステンドグラス] 日吉キャンパスの歴史

1998/05/01 (「塾」1998年MAY(No.212)掲載)
慶應義塾の5つのキャンパスの中でも、若々しい熱気とエネルギーに満ちあふれた日吉キャンパス。
今回は、慶應義塾の歴史の中にあって戦後の全塾復興をはじめ、
義塾の発展に重要な役割を果たしてきた"日吉キャンパス"の歴史を紹介しよう。

- 日吉キャンパス開設までの経緯

開校当初の日吉駅と航空写真
開校当初の日吉駅と航空写真
 慶應義塾の大学部は、大正7(1918)年に発布された大学令によって、文学・経済学・法学・医学の4学部からなる総合大学となった。この当時の三田キャンパスは、明治4(1871)年の移転以来、敷地や建物の拡張によって移転当初と比べて土地が7割弱、建物が12倍以上に増加していた。しかし、それに伴って学生数も移転当初の300名から10,700余名へと激増、かなり手狭な状態となっていた。
 この状況を受けて、昭和2(1927)年、大学評議全で敷地拡張設備改善問題に関する特別委員が選出され、本格的に移転問題に取り組むことになった。その後、東京横浜電鉄株式全社(現・東京急行株式全社)から、沿線の〝日吉台〟の土地72,000余坪を無償提供する旨の申込書類が義塾に提出され、移転先を〝日吉〟に決定した。

- アメリカ軍による接収戦後

日吉返還式と記念の鍵(1949年10月1日) 
日吉返還式と記念の鍵(1949年10月1日) 
 慶應義塾は、第2次世界大戦の戦災によって全施設の6割を焼失したが、幸運にも日吉キャンパスは延べ坪82,773坪余りが被災を免れることができた。これは義塾の残存全施設面積の5割に相当した。日吉キャンパスは、戦後の全整復興の足がかりとして重要な役割を果たすはずだったが、終戦後間もない昭和20(1945)年9月、施設の半分がアメリカ軍に接収されることになった。
 その後、社中一丸となり返還運動を推進、4年後の昭和24(1949)年7月5日、総司令部から塾長宛に正式文書による返還通知があり、全社中の悲願であった日吉返還がついに実現した。
 返還式は同年10月1日に行われ、潮田塾長以下義塾関係者一同列席のもと、返還のシンボルとして金色木製の〝大鍵〟が、潮田塾長に手渡された。

- 21世紀に向けて

開校当時の銀杏並木
開校当時の銀杏並木
現在の銀杏並木
現在の銀杏並木
  現在、日吉キャンパスは、総合政策・環境情報学部を除く学部の1・2年生(文学部は1年、医学部は2年次春学期まで)が学ぶキャンパスに発展している。昨年9月には、「日吉キャンパス研究環境基本計画委員会」が発足し、21世紀に向けて新しいキャンパス構想が検討されている。

【年表】

昭和9(1934)年 4月に予科の移転をもって日吉キャンパスが開校、5月から授業を始める。11月に「福澤先生誕生百年並日吉開校記念祝賀会」開催。
昭和14(1939)年 6月に藤原工業大学(現・理工学部の前身)が日吉に開校。
昭和19(1944)年 藤原工業大学が本塾に寄付され、大学工学部となる。
昭和20(1945)年 4月、日吉地区被災、9月に日吉の施設が進駐軍に接収される。
昭和24(1949)年 10月、接収された日吉施設が進駐軍から返還される。高等学校が日吉に移転。
昭和27(1952)年 9月、普通部が日吉に移転。
昭和32(1957)年 日吉第4校舎竣工。
昭和33(1958)年 藤山記念日吉図書館および日吉記念館竣工。
昭和35(1960)年 日吉プール竣工。
昭和38(1963)年 5月、高等学校校舎および日吉会堂竣工。
昭和60(1985)年 日吉図書館(現・日吉メディアセンター)開館。
平成10(1997)年 2月、日吉キャンパスの銀杏並木が平成9年第7回横浜市「横浜まちなみ景観賞」を受賞。