メインカラムの始まり
[研究最前線] わが国の歴史人口学を確立~新しい近世像を紡ぎだす~(慶應義塾大学名誉教授 速水融)
2010/01/06
速水 融 慶應義塾大学名誉教授
いまから40数年前、ヨーロッパ留学中に人口の観点から歴史を把握しようとする「歴史人口学」に出会った速水融名誉教授は、帰国後、江戸時代の人口史料「宗門改帳」(しゅうもんあらためちょう)を分析し、わが国の「歴史人口学」を確立しました。統計学、経済学、社会学、古文書学など、多様な学問を統合した歴史人口学によって、従来の歴史観から自由な「新しい近世像」が紡ぎだされたのです。どのような新しい発見がもたらされたのでしょうか。
※職名等は掲載当時のものです。
※職名等は掲載当時のものです。
速水 融(はやみ あきら)
1929年東京生まれ。1950年慶應義塾大学経済学部卒業。1953年慶應義塾大学経済学部副手に就任。助教授を経て、1967年教授。経済学部長、大学院経済学研究科委員長などを歴任し、1992年大学名誉教授。塾外では麗澤大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授などを務める。経済学博士。日本学士院会員。2009年に文化勲章受章。主著に『近世農村の歴史人口学的研究』『近世濃尾地方の人口・経済・社会』『歴史人口学で見た日本』『歴史人口学研究 新しい近世日本像』ほか多数。
ピラミッドの頂上で、新たな歴史学創造を予感
──ヨーロッパに留学したいきさつからお聞かせください。
慶應義塾大学には、戦前から若い研究者を海外に留学させる制度がありました。戦中から戦後しばらくの間は中止されていましたが、1960年代初めに復活し、日本経済史を専門としていた私にも、留学のチャンスが巡ってきました。16~17世紀に日本と交流のあったポルトガルとの貿易を研究しようと、留学先をポルトガルに決め、1963年に羽田空港を出発しました。
途中、イスラム社会をこの目で見たいと、テヘラン、ダマスカス、ベイルートなどを経て、エジプトのカイロに着きました。カイロでは、ピラミッドに登りました。右手に広大なサハラ砂漠が広がり、左手にナイル河の沃野が続きます。実は、この体験がその後の私の学問に大きな影響を与えたのです。当時の歴史学では、歴史は古代奴隷制、中世封建制、近代資本主義というふうに発展するという歴史観が主流を占めていました。しかし、ピラミッドの頂上からあたりの風景を見渡したとき、私はこの歴史観に大きな違和感を覚えたのです。
ピラミッドは、古代エジプト文明を代表する巨大建造物です。近代技術を持たない人々が石を積み上げて、かくも巨大な建造物を造り上げたわけですが、この古代文明と中世の封建社会がどうしても結びつかなかったのです。古代文明は一度終わりを告げたのではないか、歴史とは発展史観のような単純なものではないのでは──そうした疑問が、大げさにいえば、天啓のようにピラミッドの頂上にいた私を襲ってきたのです。
しかし、ではどんな歴史観によって説明できるのかは結論を出すことができず、宿題をもらったままエジプトを後にしました。
慶應義塾大学には、戦前から若い研究者を海外に留学させる制度がありました。戦中から戦後しばらくの間は中止されていましたが、1960年代初めに復活し、日本経済史を専門としていた私にも、留学のチャンスが巡ってきました。16~17世紀に日本と交流のあったポルトガルとの貿易を研究しようと、留学先をポルトガルに決め、1963年に羽田空港を出発しました。
途中、イスラム社会をこの目で見たいと、テヘラン、ダマスカス、ベイルートなどを経て、エジプトのカイロに着きました。カイロでは、ピラミッドに登りました。右手に広大なサハラ砂漠が広がり、左手にナイル河の沃野が続きます。実は、この体験がその後の私の学問に大きな影響を与えたのです。当時の歴史学では、歴史は古代奴隷制、中世封建制、近代資本主義というふうに発展するという歴史観が主流を占めていました。しかし、ピラミッドの頂上からあたりの風景を見渡したとき、私はこの歴史観に大きな違和感を覚えたのです。
ピラミッドは、古代エジプト文明を代表する巨大建造物です。近代技術を持たない人々が石を積み上げて、かくも巨大な建造物を造り上げたわけですが、この古代文明と中世の封建社会がどうしても結びつかなかったのです。古代文明は一度終わりを告げたのではないか、歴史とは発展史観のような単純なものではないのでは──そうした疑問が、大げさにいえば、天啓のようにピラミッドの頂上にいた私を襲ってきたのです。
しかし、ではどんな歴史観によって説明できるのかは結論を出すことができず、宿題をもらったままエジプトを後にしました。
ルイ・アンリの「歴史人口学」に出会う
──留学先のポルトガルでは、学問の収穫はいかがだったのですか。
ポルトガルでは、当初学ぼうと考えていた日本との貿易についての学問的な成果を得ることはできませんでした。なにしろ、史料館に眠る未分類の厖大な史料をひとつひとつ探さなければならない。ラテン語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語が必要で、にわか仕込みのポルトガル語では歯が立たなかったのです。しかし、リスボンの本屋で1冊の本を購入しました。それはベルギーのゲント大学の経済史の先生であるフェルリンデン教授が書かれ、ポルトガルの出版社から出た『一般経済史序論』というフランス語の本でした。
この本の内容は、いわゆる発展歴史観によるものではなく、経済史をヒトやカネの流れがあまり活発ではない「第一サイクル」と、それらが流れ出す「第二サイクル」に区分する歴史観、経済史観で、私がこれまでの歴史学に抱いていた疑問に答えてくれるものでした。そこで私は、ゲント大学でフェルリンデン教授のもとで学ぼうと考えたのですが、ベルギーに行ってみると、教授はイタリアに行っていて会えずじまいでした。
ポルトガルでは成果があげられず、ベルギーでは目的の教授に会えない、この留学では2度大きな空振りをしたのです(笑)。
──失敗の後、大きな収穫を得られたのですか。
ええ、ベルギーに滞在中、ブリュッセル自由大学の教授から、いまヨーロッパで非常に注目されている本として紹介されたのが、フランスの国立人口問題研究所(INED)のルイ・アンリという歴史学者が書いた歴史人口学の本でした。
キリスト教の社会では、生まれると洗礼を受けますが、そのとき、赤ちゃん、父親、母親の名前が記録されます。そして、結婚するときも牧師が立ち会い誰と誰が結婚したかが記録され、さらに死亡したときも同じように記録されます。誕生・結婚・死亡という人生の三大イベントが教会ごとに日記風に記録されるわけです。この記録を「教区簿冊」といいますが、ルイ・アンリはこの「教区簿冊」から、一組の夫婦の結婚、子どもの誕生、死亡の情報を拾い出して整理していったのです。こうした記録を何百、何千と集めていくことによって、近代人口統計以前のフランスの人口指標を明らかにしたのがルイ・アンリの重要な功績でした。
この歴史人口学との出会いは、それまで2度空振りしていたのが3打目にヒットを打てたようなものでした(笑)。そして、オリンピックが開催されている日本に1964年に帰ってきたのです。
ポルトガルでは、当初学ぼうと考えていた日本との貿易についての学問的な成果を得ることはできませんでした。なにしろ、史料館に眠る未分類の厖大な史料をひとつひとつ探さなければならない。ラテン語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語が必要で、にわか仕込みのポルトガル語では歯が立たなかったのです。しかし、リスボンの本屋で1冊の本を購入しました。それはベルギーのゲント大学の経済史の先生であるフェルリンデン教授が書かれ、ポルトガルの出版社から出た『一般経済史序論』というフランス語の本でした。
この本の内容は、いわゆる発展歴史観によるものではなく、経済史をヒトやカネの流れがあまり活発ではない「第一サイクル」と、それらが流れ出す「第二サイクル」に区分する歴史観、経済史観で、私がこれまでの歴史学に抱いていた疑問に答えてくれるものでした。そこで私は、ゲント大学でフェルリンデン教授のもとで学ぼうと考えたのですが、ベルギーに行ってみると、教授はイタリアに行っていて会えずじまいでした。
ポルトガルでは成果があげられず、ベルギーでは目的の教授に会えない、この留学では2度大きな空振りをしたのです(笑)。
──失敗の後、大きな収穫を得られたのですか。
ええ、ベルギーに滞在中、ブリュッセル自由大学の教授から、いまヨーロッパで非常に注目されている本として紹介されたのが、フランスの国立人口問題研究所(INED)のルイ・アンリという歴史学者が書いた歴史人口学の本でした。
キリスト教の社会では、生まれると洗礼を受けますが、そのとき、赤ちゃん、父親、母親の名前が記録されます。そして、結婚するときも牧師が立ち会い誰と誰が結婚したかが記録され、さらに死亡したときも同じように記録されます。誕生・結婚・死亡という人生の三大イベントが教会ごとに日記風に記録されるわけです。この記録を「教区簿冊」といいますが、ルイ・アンリはこの「教区簿冊」から、一組の夫婦の結婚、子どもの誕生、死亡の情報を拾い出して整理していったのです。こうした記録を何百、何千と集めていくことによって、近代人口統計以前のフランスの人口指標を明らかにしたのがルイ・アンリの重要な功績でした。
この歴史人口学との出会いは、それまで2度空振りしていたのが3打目にヒットを打てたようなものでした(笑)。そして、オリンピックが開催されている日本に1964年に帰ってきたのです。
「宗門改帳」をベーシック・データ・シートに整理する
宗門改帳
ここから一人ひとりの名前や年齢、家族関係をシートに転記していく。
ここから一人ひとりの名前や年齢、家族関係をシートに転記していく。
──留学中に学んだ歴史人口学の手法を、帰国されてからどのようにご自分の学問に取り入れていったのでしょう。
私は、留学する前に慶應義塾大学の野村兼太郎教授に学んでいましたが、先生から江戸時代の「宗門改帳」の整理を任されていました。
それで、この歴史人口学の手法を使って「宗門改帳」を分析すれば、ヨーロッパの歴史人口学よりももっと優れた研究ができるのではないかと直感しました。というのは、「宗門改帳」には、「教区簿冊」には記載されていない家族の状態が記載されており、しかも毎年継続して作成されていました。これを集計していけば、その時代の人口の動態を把握することもできると思われたからです。
帰国してからは国内の「宗門改帳」を探し出しデータ化する作業を始めました。国立史料館に足を運び、尾張国海西郡神戸新田や信濃国諏訪領の「宗門改帳」を撮影したのですが、当時はマイクロフィルムの撮影装置やコピー機などがない時代なので、普通のカメラで撮影するという非常に手間のかかる仕事でした。そのうちにマイクロフィルムの装置が開発されましたが、大きな装置なので手で運ぶわけにはいかず、車に積み込んで走りまわって、各地の「宗門改帳」を撮影したものです。
私は、留学する前に慶應義塾大学の野村兼太郎教授に学んでいましたが、先生から江戸時代の「宗門改帳」の整理を任されていました。
それで、この歴史人口学の手法を使って「宗門改帳」を分析すれば、ヨーロッパの歴史人口学よりももっと優れた研究ができるのではないかと直感しました。というのは、「宗門改帳」には、「教区簿冊」には記載されていない家族の状態が記載されており、しかも毎年継続して作成されていました。これを集計していけば、その時代の人口の動態を把握することもできると思われたからです。
帰国してからは国内の「宗門改帳」を探し出しデータ化する作業を始めました。国立史料館に足を運び、尾張国海西郡神戸新田や信濃国諏訪領の「宗門改帳」を撮影したのですが、当時はマイクロフィルムの撮影装置やコピー機などがない時代なので、普通のカメラで撮影するという非常に手間のかかる仕事でした。そのうちにマイクロフィルムの装置が開発されましたが、大きな装置なので手で運ぶわけにはいかず、車に積み込んで走りまわって、各地の「宗門改帳」を撮影したものです。
各年での年齢が一目でわかるようにした。
誕生B、結婚M、死亡D、などの記号も書き込んでいく。
誕生B、結婚M、死亡D、などの記号も書き込んでいく。
──そうして収集された史料をどのように整理していったのですか。
最初は1枚のシートに、1家族を1年単位で記録していたのですが、その後、B4判のシート1枚に1世帯の25年間の出来事を書き込んでいくスタイルにしました。そこに「宗門改帳」に記されている個人の名前、年ごとの年齢、生誕、結婚、死亡などの変化を書き込んでいったのです。この1枚のシートを見れば、家族や人の生涯の変遷が一目瞭然に分かるもので、私はこのシートにBDS(ベーシック・データ・シート)と名前をつけました。
実はこのシートを思いついたのは、私が鉄道マニアだったからで、列車の時刻表を参考にして発明したのです(笑)。列車時刻表の駅にあたるのがBDSの年代で、列車にあたるのが個人です。いまはコンピュータを使って整理していますが、その基本になるのは、いまでもBDSです。
最初は1枚のシートに、1家族を1年単位で記録していたのですが、その後、B4判のシート1枚に1世帯の25年間の出来事を書き込んでいくスタイルにしました。そこに「宗門改帳」に記されている個人の名前、年ごとの年齢、生誕、結婚、死亡などの変化を書き込んでいったのです。この1枚のシートを見れば、家族や人の生涯の変遷が一目瞭然に分かるもので、私はこのシートにBDS(ベーシック・データ・シート)と名前をつけました。
実はこのシートを思いついたのは、私が鉄道マニアだったからで、列車の時刻表を参考にして発明したのです(笑)。列車時刻表の駅にあたるのがBDSの年代で、列車にあたるのが個人です。いまはコンピュータを使って整理していますが、その基本になるのは、いまでもBDSです。
江戸や大坂は人口が増えなかった 「都市アリ地獄説」を提唱
図 幕府の国別人口調査
人口増加の地域は赤、減少の地域は青く表示されている。
人口増加の地域は赤、減少の地域は青く表示されている。
──江戸時代の人口史料を分析されて、さまざまなことが判明したと思いますが、その一端をお話しください。
わが国には、世界に誇るマクロの人口史料があります。江戸時代の18世紀初めに、8代将軍徳川吉宗が始めた国別の人口調査です。これを分析してみると、全国的には大きな人口変動はないのですが、地域別に見ていくと、人口増加が起こったところ、減ったところ、変動がなかったところに、大きく色分けすることができます。増えたのは、北陸と四国、山陽、山陰、九州などの西日本、減ったのが東北地方と関東地方です。
こうして、国別、地域別に見ていくと、江戸時代には人口は停滞していたという従来の見方が修正される必要が生じます。とくに興味深いのは、人口が増えなかったのは関東と近畿の2地域で、ここは江戸、大坂といった都市が控えています。都市では人口が増加していると考えがちですが、江戸や大坂では死亡率が高く、人口は減少していくため、周辺の地域から人口を流入させないと都市機能がもたない。都市に出てきた人は商家などの屋根裏部屋に詰め込まれ、病気などもうつりやすいため、どうしても死亡率が高くなるのです。私はこの現象を「都市アリ地獄説」と名づけて提起しました。
ところで、農村地域では、本家から分家が発生し、その分家から小作人が奉公人となって都市に流れ込んでいきます。江戸や大坂ではこうした流入する人口を吸収することができましたが、四国や九州などでは流入する人口を迎え入れるだけの都市が育たなかった。そのため、土佐藩や薩摩藩などでは、都市に行くことができず、地域に残ったエネルギーにあふれた人材が明治維新を起こす原動力になったのではと、私は考えています。
わが国には、世界に誇るマクロの人口史料があります。江戸時代の18世紀初めに、8代将軍徳川吉宗が始めた国別の人口調査です。これを分析してみると、全国的には大きな人口変動はないのですが、地域別に見ていくと、人口増加が起こったところ、減ったところ、変動がなかったところに、大きく色分けすることができます。増えたのは、北陸と四国、山陽、山陰、九州などの西日本、減ったのが東北地方と関東地方です。
こうして、国別、地域別に見ていくと、江戸時代には人口は停滞していたという従来の見方が修正される必要が生じます。とくに興味深いのは、人口が増えなかったのは関東と近畿の2地域で、ここは江戸、大坂といった都市が控えています。都市では人口が増加していると考えがちですが、江戸や大坂では死亡率が高く、人口は減少していくため、周辺の地域から人口を流入させないと都市機能がもたない。都市に出てきた人は商家などの屋根裏部屋に詰め込まれ、病気などもうつりやすいため、どうしても死亡率が高くなるのです。私はこの現象を「都市アリ地獄説」と名づけて提起しました。
ところで、農村地域では、本家から分家が発生し、その分家から小作人が奉公人となって都市に流れ込んでいきます。江戸や大坂ではこうした流入する人口を吸収することができましたが、四国や九州などでは流入する人口を迎え入れるだけの都市が育たなかった。そのため、土佐藩や薩摩藩などでは、都市に行くことができず、地域に残ったエネルギーにあふれた人材が明治維新を起こす原動力になったのではと、私は考えています。
──人口史料の分析から社会の変化が読み取れるのですね。
信濃国の諏訪藩の「宗門改帳」を研究すると、17世紀に人口の爆発的な増加が見られました。この背景には、家族形態の変化がありました。これまでは一つの世帯に親夫婦、子夫婦、兄弟夫婦、さらには叔父や甥、従兄などが一緒に住む「合同家族世帯」であったのが、この時期には、1夫婦と子ども、祖父、祖母の3世帯が住む「直系家族世帯」に変わってきたのです。大規模な世帯構成から小規模な家族になるに従って、結婚率が上がり、出生率も上がって、人口が増えたと考えられます。
そして、労働が家族単位で行われるようになると、朝から晩まで一生懸命になって働くようになり生産性が格段に上がるようになりました。私が命名した「勤勉革命」(industrious revolution)ですね。
信濃国の諏訪藩の「宗門改帳」を研究すると、17世紀に人口の爆発的な増加が見られました。この背景には、家族形態の変化がありました。これまでは一つの世帯に親夫婦、子夫婦、兄弟夫婦、さらには叔父や甥、従兄などが一緒に住む「合同家族世帯」であったのが、この時期には、1夫婦と子ども、祖父、祖母の3世帯が住む「直系家族世帯」に変わってきたのです。大規模な世帯構成から小規模な家族になるに従って、結婚率が上がり、出生率も上がって、人口が増えたと考えられます。
そして、労働が家族単位で行われるようになると、朝から晩まで一生懸命になって働くようになり生産性が格段に上がるようになりました。私が命名した「勤勉革命」(industrious revolution)ですね。
スペイン・インフルエンザの死者数を分析
──歴史人口学の視点から、大正期のスペイン・インフルエンザの死者数などを推察した先生の研究が、新型インフルエンザの影響もあって注目を集めています。
大正時代に流行したわが国のスペイン・インフルエンザの死者数は、約38万8000人といわれてきましたが、スペイン・インフルエンザに関する著書や論文がほとんどなかったことから、調査・研究することにしたのです。上記の死者数の根拠は、当時の内務省衛生局がまとめた「流行性感冒」という調査がもとになっています。しかしこの調査には、ある県は途中までしか集計されていないなど、不備な点も多くありました。
そこで、横浜の新聞博物館に通い詰め、当時の全国紙、地方紙などの新聞記事を収集すると同時に、軍隊、地域学校などのスペイン・インフルエンザに関する資料も可能な限り集めてみました。さらに国内だけでなく、中国、台湾などにいる外地人の死者数なども集めていきました。最終的には、歴史人口学の観点から、平年の病気による死者数と流行病が流行った年の死者数を比較し、流行病が流行った年の超過死亡(エクセスデス=excess death)を計算してみました。すると、国内(内地)だけで45万人、外国にいる外地人が28万人、合計73万人のスペイン・インフルエンザによる死者があったと推計できました。これまで考えられていた死者数よりもたくさん亡くなっていたということが分かったのです。
大正時代に流行したわが国のスペイン・インフルエンザの死者数は、約38万8000人といわれてきましたが、スペイン・インフルエンザに関する著書や論文がほとんどなかったことから、調査・研究することにしたのです。上記の死者数の根拠は、当時の内務省衛生局がまとめた「流行性感冒」という調査がもとになっています。しかしこの調査には、ある県は途中までしか集計されていないなど、不備な点も多くありました。
そこで、横浜の新聞博物館に通い詰め、当時の全国紙、地方紙などの新聞記事を収集すると同時に、軍隊、地域学校などのスペイン・インフルエンザに関する資料も可能な限り集めてみました。さらに国内だけでなく、中国、台湾などにいる外地人の死者数なども集めていきました。最終的には、歴史人口学の観点から、平年の病気による死者数と流行病が流行った年の死者数を比較し、流行病が流行った年の超過死亡(エクセスデス=excess death)を計算してみました。すると、国内(内地)だけで45万人、外国にいる外地人が28万人、合計73万人のスペイン・インフルエンザによる死者があったと推計できました。これまで考えられていた死者数よりもたくさん亡くなっていたということが分かったのです。
東シナ海沿岸地域を歴史人口学で分析するのが、これからのテーマ
──これからの研究テーマについてお聞かせください。
一つは、まだ発掘されていない「宗門改帳」を収集し、研究の空白地帯を埋めていくこと。たとえば、四国、九州などはまだ史料が不足しています。
もう一つは、東シナ海沿岸(西南日本)地域の家族・世帯構造の統計を整理することで、日本の人口、家族のあり方、文化の諸相を浮き彫りにすることができるのではないかと思っています。さらに、日本だけでなく韓国、中国を含めた国際的な東シナ海沿岸地域を歴史人口学で研究すると、東アジアの歴史に対する新しい切り口が見つかるのではないかと期待しています。西南日本地域のデータを見ると、女性の結婚年齢が遅い一方、結婚前や離婚後の出生が他地域より多いなど、倫理的にかなり自由なことがうかがえます。これまで研究してきた「宗門改帳」は父系制の原理によっており、男系家族に女性が入ってくることを前提に作られていますが、東シナ海沿岸地域を対象にして歴史人口学で調査・研究すると、女系家族に男性が入ってくる母系制の観点から歴史を見直すこともできるのではないかと考えています。
──新しい歴史人口学が日本で受け入れられるようになるには、ご苦労もおありだったのでは。
私が始めた頃の歴史人口学は、日本ではなかなか認めてもらえず、発表の機会さえない状況でした。そこで英語で論文を発表し、むしろアメリカやヨーロッパの学会で評価されていました。アナール学派の季刊誌に論文が掲載されるなど、日本の歴史人口学を世界に知らしめることに多少なりとも貢献できたと思います。
なかなか研究予算がつかず苦労もしましたが、新しい分野を切り拓いている気概に燃えていましたし、新しい発見の連続で実にわくわくしましたね。歴史人口学は、これまでの人文科学的なアプローチと異なり、数量データで実証することができる社会科学の側面も強いのです。また、これまで研究対象になりにくかった庶民の歴史も浮かび上がらせることができ、ミクロとマクロの両面からアプローチできる醍醐味もあります。
今では、歴史人口学を専攻する若い人が増えてきました。まだまだ手つかずの部分も多いので、若い研究者が育っているのは心強い限りですね。
一つは、まだ発掘されていない「宗門改帳」を収集し、研究の空白地帯を埋めていくこと。たとえば、四国、九州などはまだ史料が不足しています。
もう一つは、東シナ海沿岸(西南日本)地域の家族・世帯構造の統計を整理することで、日本の人口、家族のあり方、文化の諸相を浮き彫りにすることができるのではないかと思っています。さらに、日本だけでなく韓国、中国を含めた国際的な東シナ海沿岸地域を歴史人口学で研究すると、東アジアの歴史に対する新しい切り口が見つかるのではないかと期待しています。西南日本地域のデータを見ると、女性の結婚年齢が遅い一方、結婚前や離婚後の出生が他地域より多いなど、倫理的にかなり自由なことがうかがえます。これまで研究してきた「宗門改帳」は父系制の原理によっており、男系家族に女性が入ってくることを前提に作られていますが、東シナ海沿岸地域を対象にして歴史人口学で調査・研究すると、女系家族に男性が入ってくる母系制の観点から歴史を見直すこともできるのではないかと考えています。
──新しい歴史人口学が日本で受け入れられるようになるには、ご苦労もおありだったのでは。
私が始めた頃の歴史人口学は、日本ではなかなか認めてもらえず、発表の機会さえない状況でした。そこで英語で論文を発表し、むしろアメリカやヨーロッパの学会で評価されていました。アナール学派の季刊誌に論文が掲載されるなど、日本の歴史人口学を世界に知らしめることに多少なりとも貢献できたと思います。
なかなか研究予算がつかず苦労もしましたが、新しい分野を切り拓いている気概に燃えていましたし、新しい発見の連続で実にわくわくしましたね。歴史人口学は、これまでの人文科学的なアプローチと異なり、数量データで実証することができる社会科学の側面も強いのです。また、これまで研究対象になりにくかった庶民の歴史も浮かび上がらせることができ、ミクロとマクロの両面からアプローチできる醍醐味もあります。
今では、歴史人口学を専攻する若い人が増えてきました。まだまだ手つかずの部分も多いので、若い研究者が育っているのは心強い限りですね。
























