ヘッダーの始まり
グローバルナビゲーションの始まり
パンくず式ナビゲーション
左カラムの始まり
ローカルメニューの始まり
メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.80 『福澤諭吉傳』の復刊

石河幹明著『福澤諭吉傳』が復刊されたのは昭和56年(1981)9月のことであった。昭和7年の刊行から数えて、すでに50年の歳月を重ねている。しかも菊判全4巻3500頁に及ぶこの大著を復刊することは、採算面からみれば決して引き合う仕事ではない。にも拘わらず版元の岩波書店が敢えてその復刊を企図したのは、「福澤先生の経歴・言行の客観的叙述を旨とし、多数の今日までに失われた史料類を含む豊富な原史料とあいまって、文献的価値について高い評価を受けている」(「復刊のことば」)からにほかならない。

著者石河幹明が、義塾評議員会の議を経て、いわば公伝とも称すべき福澤諭吉傳編纂の委嘱を受けたのは、大正12年(1923)6月のことであった。当初編纂の期間を3か年としていたが、先生の死後20数年を経過した時点での伝記編纂だけに、散逸した資料の蒐集や、たまたま起こった関東大震災による障碍など、編纂上の困難は一通りではなく、若き日の富田正文を唯一の助手として、昭和6年3月の脱稿まで、実に7年有余の日時を費やしての完成であった。

元来、石河は水戸藩士の子として安政6年(1859)に生まれ、水戸師範を卒業、同校の教員として2年ばかり教鞭をとった後、明治14年慶應義塾に学び、18年本科卒業、直ちに『時事新報』に入社、最初外国電報、外国新聞の翻訳を担当、次いで論説の筆をとり、平明暢達の文章は、師福澤の衣鉢を継ぐものといわれ、殊に先生が明治31年9月、第1回目の脳出血症の発作に見舞われた以後の『時事新報』社説は、殆ど石河の筆になるものであった。そして34年2月、福澤先生の逝去に伴い同紙の主筆に就任、編集論説面での責任を一身に担い、大正11年その職を辞するまで、先生なきあとの『時事新報』をして「日本一の時事新報」との世評を定着せしめたその功績の多くは、石河の力によるものであった。

従って『福澤諭吉傳』全4巻は正に最適の人によって書かれた公伝といってよい。しかも小泉信三が嘗て指摘したように、「世間によく見る抒情的礼賛的伝記」ではなく、「氏の現実の筆は飽くまで冷静厳正で、絶えて憶測論評に耽けることをせず」「何処までも事実を事実として語らしめるという態度をもって一貫している」(『師・友・書籍』岩波書店刊)ことが、本書への高い評価を今も失わしめない所以であろう。

フッターの始まり