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[慶應義塾豆百科] No.63 福澤先生墓所

2月3日の命日に、墓前に詣でる塾生
2月3日は福澤先生の命日である。雪池忌ともよばれるこの日は、先生の墓前に香華を手向ける人々の列は、早朝から絶え間なく続く。そのほとんどは、義塾の教職員、卒業生、塾生とその父母たちである。いつの頃からか、先生の命日にお詣りすると落第しないという噂が塾生たちの間に言い伝えられたことにもよるが、先生の歿後、100年以上経過しているというのに、現代っ子の若者たちが、学園の創立者の墓前に、自らの意志において合掌する光景は、慶應義塾のちょっといい話といってよい。

ところでこの機会に福澤先生の墓所についてふれておきたい。明治34年(1901)2月3日、先生が長逝せられ、その葬儀は菩提寺である麻布山善福寺で行われたが、霊柩は上大崎の墓地に運ばれそこに手厚く葬られたのであった。この上大崎の墓地は、もともと正福寺という芝増上寺の末寺のあったところだが、それが廃寺となり、先生がなくなられた頃はその跡を隣りの本願寺が管理していた。その後、明治42年になって高輪泉岳寺に近いところに在った常光寺という芝増上寺の末寺が、廃寺となった正福寺の跡を譲り受けて、この場所に移転してきたため、爾来この地が常光寺の墓地とよばれて、塾関係者の間で長く親しまれてきた。

元来福澤家は、浄土真宗の信徒であったにも拘らず、なぜ先生が浄土宗の常光寺の地に埋葬されたかといえば、先生の存命中に、自らこの地を墓所に選定しておかれたからである。晩年先生は散歩を好まれ、三田を起点に良く近郊を歩かれたが、たまたま上大崎のこの地が、高台で眺望もよく、気に入られたようである。入手した時期は明らかではないが、日清戦争前後の頃と推定されている。いま一つ先生がこの地を選んだ理由として、先生がその人柄を深く敬愛していた慶應義塾幼稚舎の初代舎長和田義郎の墓が、この地にあったことによるのではないか、との説もある。

いずれにしても、菩提寺と墓所とが別々で、しかも宗派が浄土宗と浄土真宗とに分かれている不自然さは、早晩なんらかの解決を迫られていた。そこで昭和52年5月、福澤家ではこの懸案の解決を企図し、墓所を常光寺から菩提寺の港区元麻布一丁目にある名刹善福寺に移葬したのであった。なお常光寺の墓所跡には、義塾の手により「福澤諭吉先生永眠之地」と題する記念碑(谷口吉郎設計)が建てられている。

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