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[慶應義塾豆百科] No.39 慶應義塾維持法案

慶應義塾が過去130余年の歩みのなかで、財政的な行き詰まりから存廃の岐路にまで立たされた最初の危機は、明治11、2年頃のことであった。直接の原因は、西南戦争によるインフレーションが士族に多大の打撃を与え、義塾に学ぶ子弟の数が俄かに減じたことであった。『百年史』によれば、明治4年三田移転当時は377名もあった入学者数が、10年には僅か105名になったという。このことは財政的に大きな痛手であった。その頃義塾の年間経常費はといえば、明治6年4月に東京府に提出した「私学慶應義塾開業願」に「概略1か年凡8000円」とある。他方収入面での推移をみると、明治8年(9058円)、9年(6788円)、10年(5226円)、11年(4296円)、12年(3727円)となっており、収入面での急激な落ち込みは数字上も明らかである。

この窮状を打開するため経費節減の徹底はもとより、福澤先生は政府に義塾への一時維持資金の貸付を求めた。当初25万円を無利息10か年賦で借りようとしたが、願書提出後無利息というのは妥当でないとの政府部内の意向が使えられ、4分利40万円に改めたほか当路の実力者であった伊藤博文、井上馨などに対し、長文の書翰を送って支援を求めたのである。それは請願というより談判に近い文面であったことが注目される。たとえば政府が三菱商船学校に補助を与えつつある例を引き、「岩崎弥太郎は海の船士を作り福澤諭吉は陸の学士を作る。其間に軽重あるべからず」とか、またある商人が軍靴を造るために5万円を借用した例を挙げ、「靴を作ると人を作ると孰れか軽重、3歳の童子も之を弁ずるに易し。靴の為に5万円拝借すれば人の為に40万円を拝借するも大いなる不平均にはあらざるべし」とまで言い放って憚らぬ先生であった。だが事態は必ずしも先生の望む方向には進展せず、自らの手で前に提出した願書の返却を求めたのである。先生の腹は決まっていた。廃塾である。けれども門下の高弟たちはそれに同意せず、幾度か熟議を重ねた結果の所産が、慶應義塾維持法案の制定であった。実にそれは私学が卒業生及び世の篤志家に訴えて改善充実の寄付を求めた最初の試みであった。明治13年11月のことである。幸い総額4万4365円の申し込みを得ることができ、他方入塾生の数も次第に回復し、ここに義塾存廃の危機を自らの力で見事に克服し得たのであった。

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