ヘッダーの始まり
グローバルナビゲーションの始まり
パンくず式ナビゲーション
左カラムの始まり
ローカルメニューの始まり
メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.27 大阪慶應義塾

大阪慶應義塾教員と生徒
明治初年における慶應義塾の評判はまさに当代随一をほこり、いやしくも洋学に志のあるものはこぞって義塾に殺到するいきおいであった。しかし、遠隔の地に住むものたちにとり、わざわざ上京してまで勉学するというのは、当時としては容易ならぬことである。

そこで、このような不便を考慮し、地方の学生のために多少とも就学しやすからしめようとの趣旨から、明治6、7年のころ、慶應義塾では大阪・京都・徳島等に相ついで分校を置いたことがあった。そのうち、大阪のものは「大阪慶應義塾」と呼ばれ、義塾の分校として最初のものである。

設立の経緯は、まず東京府知事大久保一翁宛に明治6年10月8日付で願い出て、その添書をもらって、時の大阪府権知事渡辺昇に分校設立願を提出し、11月7日付で許可を得て開業しており、設立の趣旨については、右の大久保宛の文書にも、「関西の生徒は遠路の往来不便利に付」云々と明記されている。

分校の位置は、はじめは「南大組第六区安堂寺橋通三丁目第百九十二番屋敷丸家善蔵扣家」とあり、翌明治7年6月6日には北浜町2丁目の小寺篤兵衛の家に移ったと伝えられる。どちらも、いずれは関係者の好意によって用にあてられたものであろう。

派遣された教員としては、荘田平五郎、名児耶六都(なごやむつ)、岩田蕃、坪井仙次郎、矢部善蔵、あるいは矢野文雄、那珂通世、中井芳楠らの名が見られ、交代で出張教授にあたったもので、教えるところは英書、訳書、洋算、和算等に分かれ、ただに1類1課のみに限らず、生徒の意にまかせて1類数課、数類の兼学が許された。

このようにして、現存の『大阪慶應義塾入社録』によると、英書科に75名、訳書科に11名、計86名の生徒を大阪慶應義塾は育成したことになるが、やがて開設当初の意義も次第に失われて、ついに閉鎖されることになった。それは明治8年6月のことで、同6年11月の開校から2年足らずにすぎないが、明治初年の一時期にあって、それなりの役割を果たしたものといえよう。

なお、この大阪慶應義塾は閉鎖ののち、徳島にうつって徳島慶應義塾に引きつがれた。

フッターの始まり