メインカラムの始まり
KEIO ART SQUARE
慶應義塾が所蔵する貴重なアートの数々を紹介します。
三田キャンパス
デモクラシー(猪熊弦一郎)
三田キャンパス西校舎・生協食堂の壁面を飾る「デモクラシー」は、日本の現代アートの先駆者である猪熊弦一郎氏(1902~1993)の作品。もともとは、1949年、現在の西校舎北側部分に建設された「学生ホール」(谷口吉郎設計)に、建築と絵画の融和を意図して設置された壁画でした。学生ホールはその後キャンパス北側に移築されて山食として親しまれましたが、1991年の北館建設時にその役割を終えました。しかし、壁画は1988年に作者自身の指揮のもと、綜合美術団体パレットクラブの塾生・OBが修復を行い、現在の場所に移設。今も多くの塾生の目を楽しませています。なお、1991年には、猪熊の故郷・香川県丸亀市に「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」が開館。猪熊自身の依頼により谷口吉郎の子息である吉生氏(塾員)が設計しました。
知識の花弁(飯田善國)
1982年の開館時から三田キャンパス図書館新館入口を飾る「知識の花弁」。風が強い日には上部の花弁がくるくると回る“動く彫刻”で、薄明の闇に花開く大輪のイメージを形にしたこのモニュメントは、著名な彫刻家・画家であり、塾員(1949年文学部卒)でもあった飯田善國氏(1923~2006)の作品。塾生時代の飯田氏は、当時の文学部教授だった詩人・西脇順三郎氏や西脇の教え子であるシュールレアリスム詩人・瀧口修造氏とも親交を深め、後に詩画集の共同制作も行っています。飯田氏は義塾を卒業後、東京芸術大学で油絵を専攻。その後ヨーロッパで彫刻を学び、帰国後、鏡面ステンレスを多用したモニュメントや野外彫刻を発表しました。
星への信号(飯田善國)
「知識の花弁」制作者、飯田善國の作品。西門からの坂を登ったところにあるモニュメント。飯田氏はこの作品を「無限から信号を人間に伝え、人間の希望を無限なる者へ伝える仲介者」として存在するものであると語っています。
青年像(菊池一雄)
2008年に生誕100年を迎えた彫刻家・菊池一雄氏(1908~1985)の作品である立像「青年」が、三田キャンパスの西校舎と研究室棟の間にある小広場に復活。この像は、もともと1949(昭和24)年竣工の旧4号館の前に置かれていたもので、同広場が整備されたことに伴い、新たな小松石の台座とともに再び披露されました。
憂いを帯びた表情をみせる像のモデルは、応召中に喉を潰した東北の音楽家志望の青年。作者はモデルについて、「戦争の空白の中に自分を置き忘れたような暗い影を持った青年にひかれた」と語りました。なおこの作品は、第1回毎日美術賞(1949年)を受賞しています。
憂いを帯びた表情をみせる像のモデルは、応召中に喉を潰した東北の音楽家志望の青年。作者はモデルについて、「戦争の空白の中に自分を置き忘れたような暗い影を持った青年にひかれた」と語りました。なおこの作品は、第1回毎日美術賞(1949年)を受賞しています。
手古奈(北村四海)
『万葉集』に伝説が詠われている女性・手古奈をモチーフに彫刻家・北村四海氏が手がけた日本最大規模の大理石彫刻である本作品は、慶應義塾創立50年記念の図書館建設(明治45[1912]年開館)に合わせて北村氏から義塾に寄贈されたもの。昭和20(1945)年の空襲で大きな被害を受けた後は塾内の倉庫で長い年月を経ていましたが、2009年の「未来をひらく福澤諭吉展」にて、60余年ぶりに公開されました。事前の修復作業にあたっては、戦争という歴史的事実を風化させないよう、焼夷弾(しょういだん)の煤(すす)をあえて完全に洗浄しない方法がとられました。現在は、三田キャンパス図書館旧館の1階で鑑賞できます。
若い人(イサム・ノグチ)
三田キャンパスには、かつての「第二研究室」の1階部分に、談話室・庭園・彫刻からなる「ノグチ・ルーム」があり、独創的なモダニズム様式を用いた20世紀芸術の傑作として知られていました。
鉄製彫刻「若い人」は、三田キャンパスの戦後復興工事に際し、彫刻家イサム・ノグチ氏(1904~1988)が、建築と彫刻の融合を試み、ノグチ・ルームに合わせて手がけた彫刻3作品の一つ。
庭園に設置された高さ2メートルの同作品は、大理石や鉄を板状にしたパーツを組み合わせて構成するスラブ彫刻の流れをくむもので、シュールレアリスティックな抽象表現を特徴としています。
現在は、三田キャンパス南館内に移設されています。
鉄製彫刻「若い人」は、三田キャンパスの戦後復興工事に際し、彫刻家イサム・ノグチ氏(1904~1988)が、建築と彫刻の融合を試み、ノグチ・ルームに合わせて手がけた彫刻3作品の一つ。
庭園に設置された高さ2メートルの同作品は、大理石や鉄を板状にしたパーツを組み合わせて構成するスラブ彫刻の流れをくむもので、シュールレアリスティックな抽象表現を特徴としています。
現在は、三田キャンパス南館内に移設されています。
福澤諭吉還暦祝 灯台(原型制作:大熊氏広、鋳造:鈴木長吉)
1897(明治30)年、福澤諭吉の還暦祝いとして門下生たちが贈った高さ約80.5センチメートルの灯台型置物。近代日本に西洋彫刻を導入した先駆者で、福澤座像(慶應義塾志木高等学校蔵)も手掛けた大熊氏広が原型を制作し、鋳造は江戸の伝統技法を受け継ぐ彫金師で、ニュルンベルク万国博覧会で金賞を受賞した鈴木長吉による。独立自尊を説く福澤は、自らを針路の導き手に見立てたこの贈り物を好まなかったそうですが、西洋と日本の伝統技法の見事な融合は、日本美術史を語る上でたいへん貴重な価値をもっています。現在は、三田キャンパス南校舎内「社中交歡 萬來舍」に展示されています。
平和来(朝倉文夫)
明治期から戦後まで活躍した彫刻家朝倉文夫氏が制作。「へいわきたる」と読みます。卒業25年記念として、1932(昭和7)年卒業生有志より、1957(昭和32年)に寄贈されました。戦没塾員の霊を慰める趣旨で三田キャンパス東側、塾監局前の公園に設置され、台座には戦時中塾長であった小泉信三の碑文「丘の上の平和なる日々に 征きて還らぬ人々を思ふ」が刻まれています。
朝倉氏は肖像彫刻の名手として知られ、義塾には「新劇の父」小山内薫の胸像、理工学部の前身藤原工業大学を設立した藤原銀次郎の胸像があります。
朝倉氏は肖像彫刻の名手として知られ、義塾には「新劇の父」小山内薫の胸像、理工学部の前身藤原工業大学を設立した藤原銀次郎の胸像があります。
小山内薫胸像(朝倉文夫)
「新劇の父」といわれる小山内氏は、1910(明治43)年から1922(大正11)年まで、大学部文学科・大学文学部で教壇に立ち、三田文学などに多くの影響を与えました。この胸像は、1958(昭和33)年、小山内氏の没後30年を記念して、友人や門下生が朝倉文夫氏に依頼して作成したものです。完成当初は歌舞伎座の廊下の片隅に置かれていましたが、2度の移設を経て、現在は三田キャンパス図書館旧館八角塔脇の小高い丘、通称「文学の丘」に建っています。
獨立自尊の時計塔(設計:谷口吉郎)
慶應義塾商工学校(1905年開設・1949年廃校)の創立70周年を記念して1975(昭和50)年、三田演説館前の稲荷山に建てられました。高さ約5メートルのこの時計塔には、上部に時計、中央に福澤先生の筆跡で「獨立自尊」、下部には「慶應義塾商工学校の由来」の碑文が刻まれています。2005年には、創立100周年を記念して、時計塔の隣に山桜が植樹されました。
福澤諭吉肖像画(模写:松村菊麿、原画:和田英作)
三田演説館内に掲げられるこの肖像画は、松村菊麿氏による模写です。1960(昭和35)年のアデナウアー西ドイツ首相来塾にあたり、神戸慶應倶楽部から義塾へ寄贈されました。高さおよそ195cm、幅およそ90cmの堂々たる作品です。この肖像画には二つの“原画”が存在しました。一つは福澤の生前に、塾員の夏井潔氏が描いたスケッチ画。もう一つは、このスケッチ画を元に和田英作氏が描いた肖像画です。1937(昭和12)年、松村氏は和田氏による肖像画を元に、この作品を描きました。和田氏の原画は実業家で塾員の成瀬正行氏の依頼によって制作され、1920(大正9)年に義塾へ寄贈されましたが、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で失われています。
日吉キャンパス
胸像「平沼亮三像」(吉田三郎)
慶應義塾体育会の育ての親であり、「市民スポーツの父」と仰がれた故平沼亮三氏(1879~1959)の胸像が、日吉陸上競技場の改修工事完了に伴い復活しました。この像は1955(昭和30)年、平沼氏が喜寿の祝いに全国競技団体から贈られた寿像を本塾体育会に寄贈したもの。今回、若干の修復・整備がなされ、陸上競技場に協生館を見据える形で再設置されました。
塾生時代は、野球をはじめあらゆる競技に参加する万能選手であった同氏は、生涯を通じアマチュアスポーツの育成に尽力。1932(昭和7)年、1936(昭和11)年のロサンゼルス、ベルリン両オリンピックの日本選手団長を務めたほか、各種スポーツ団体の会長を務め、市民スポーツ振興の功績により文化勲章を受章するなど、日本スポーツ界における貢献は比類なきものでした。
塾生時代は、野球をはじめあらゆる競技に参加する万能選手であった同氏は、生涯を通じアマチュアスポーツの育成に尽力。1932(昭和7)年、1936(昭和11)年のロサンゼルス、ベルリン両オリンピックの日本選手団長を務めたほか、各種スポーツ団体の会長を務め、市民スポーツ振興の功績により文化勲章を受章するなど、日本スポーツ界における貢献は比類なきものでした。
矢上キャンパス
光のモニュメント(石井幹子)
夕刻以降、落ち着いた雰囲気のライトアップに包まれる矢上キャンパス創想館。この光は、テクノロジーとアートが融合した未来、新しい世紀に挑戦する大学のプレゼンスを表しています。建物の中心部の吹き抜け空間を照らす「光のモニュメント」は、二重らせん状の鎖がからまってつくられる遺伝子構造を模しており、これからの社会と科学技術が、生命と進化の考え方を重視すべきことを示唆しています。デザインを担当したのは照明デザイナー・石井幹子氏。同氏は「東京タワー」「姫路城」「レインボーブリッジ」「明石海峡大橋」など数多くの大型建築物の照明を手掛け、国内外で多くの賞を受けています。
藤原先生之像
王子製紙をわが国の洋紙生産の8割を占める大企業に成長させた「製紙王」として知られる藤原銀次郎氏。資源の乏しい日本を技術立国とすることを願う藤原氏は、技術者育成への思いを同じくする当時の小泉信三塾長との協議の末、1939(昭和14)年、私財を投じて日吉の地に現在の理工学部の前身である藤原工業大学を創設しました。
現在、矢上キャンパスの創想館地下[警備室付近](写真左)と25棟[教育研究実験棟](写真右)前に、藤原氏の胸像が設置されています。長年の風合いが加わった「藤原先生之像」は、キャンパスの一角から慶應義塾の理工学教育を見守っています。
現在、矢上キャンパスの創想館地下[警備室付近](写真左)と25棟[教育研究実験棟](写真右)前に、藤原氏の胸像が設置されています。長年の風合いが加わった「藤原先生之像」は、キャンパスの一角から慶應義塾の理工学教育を見守っています。
湘南藤沢キャンパス
ステンレスの樹(清川泰次)
湘南藤沢キャンパス(SFC)正門(北門)から本館(アルファ館)方面へ続く「タロー坂」の中腹脇、木立に囲まれてそびえ立つ「ステンレスの樹」。天に向かって力強く突き出されたシェイプが印象的なこのモニュメントは全面鏡面仕上げになっており、四季折々の自然と行き交う人々を映し出し、SFCの歩みを見守ってきました。作者は慶應義塾大学経済学部出身の画家・故清川泰次氏(2000年8月逝去)。SFC設立構想への共感を「青年が何か希望に向かって叫んでいるような」立体彫刻として表現し、1990年のキャンパス開設直後に寄贈されました。なお、清川氏は独自の純粋絵画を究め、その作品は国内外の一流美術館などに収蔵されています。また、1975年よりおよそ四半世紀にわたって慶應義塾広報誌『塾』の表紙画を担当しました。
ミネルバの翼(下田治)
湘南藤沢キャンパス(SFC)本館前のバス停から、テニスコートの方に向かった所にひっそりと佇む「ミネルバの翼」(彫刻家・下田治制作)。1996年に山種総合研究所代表取締役会長・山崎誠三氏(当時)より寄贈されたモニュメントです。
1994年、加藤寛初代総合政策学部長がSFC初の卒業生たちへ贈ったスピーチの中で、ドイツの哲学者ヘーゲルの文章を引用してSFCを“ミネルバの森”に、そこから巣立つ学生たちを“闇を照らすフクロウ”に例えたことからこの名がついたといいます。知恵と芸術の女神“ミネルバ”の名を冠したこのモニュメントには、若い学生の夢と英知がミネルバの翼に乗って世界の果てまで羽ばたくようにとの制作者の願いが込められています。
1994年、加藤寛初代総合政策学部長がSFC初の卒業生たちへ贈ったスピーチの中で、ドイツの哲学者ヘーゲルの文章を引用してSFCを“ミネルバの森”に、そこから巣立つ学生たちを“闇を照らすフクロウ”に例えたことからこの名がついたといいます。知恵と芸術の女神“ミネルバ”の名を冠したこのモニュメントには、若い学生の夢と英知がミネルバの翼に乗って世界の果てまで羽ばたくようにとの制作者の願いが込められています。
芝共立キャンパス
回想の街I・II(後藤よ志子)
作者は、共立薬科大学(現・薬学部の前身)在学時から絵画を独習し、数々の賞を受けた画家・後藤よ志子氏(1927~1993)。1981年に開かれた二紀会35周年記念展に出品され、文部大臣賞を受けた本作品は、スペインの都市・トレドの光景をイメージし描かれたものです。
2枚に分かれているのは、以前飾られていた共立薬科大学2号館の通路に、全体を平面上に収める横幅がなかったためで、当時は、約1メートルの間隔を置き、20度ほど内側に向けて掛けられていました。現在は、芝共立キャンパス3号館1階に展示されています。
2枚に分かれているのは、以前飾られていた共立薬科大学2号館の通路に、全体を平面上に収める横幅がなかったためで、当時は、約1メートルの間隔を置き、20度ほど内側に向けて掛けられていました。現在は、芝共立キャンパス3号館1階に展示されています。
























