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慶應義塾の記念碑

慶應義塾にはさまざまな記念碑があります。その記念碑からは慶應義塾の歴史の一端を垣間見ることができます。ここでは、その一部をご紹介します。

三田キャンパス

福澤諭吉終焉之地記念碑

福澤諭吉終焉之地記念碑
2月3日は「雪池忌」と呼ばれる福澤諭吉の命日。明治34年のこの日、福澤諭吉はこの付近にあった自邸で亡くなりました。大正10年三田会 (慶應義塾の卒業生有志が自発的に集い、運営しているもので、卒業生同士の強い絆を象徴する慶應義塾ならではの同窓会組織)寄贈の碑には、「福澤諭吉終焉之地」の文字と経歴が刻まれています。

旧制4学校記念碑

旧制4学校記念碑
慶應義塾の旧制4学校(商業学校・商工学校・工業学校・高等部)の功績をたたえ、その名を永く留めるため、平成13年に建立されました。

還らざる学友の碑

還らざる学友の碑
第2次世界大戦において志半ばにして逝った学友を偲び、かつ永く記憶にとどめるための記念碑として、平成10年11月、設置されました。除幕式では、鳥居塾長(当時)、昭和16年~22年卒業の各年三田会代表および学年代表による献花が行われました。鳥居塾長(当時)の筆による「還らざる友よ」の碑文が刻まれています。

VIRIBUS UNITIS

VIRIBUS UNITIS
塾監局の前には、「VIRIBUS UNITIS」と刻まれた小さな石碑があります。明治42年に建てられたこの碑は、同年の普通部卒業生が寄贈したもの。碑文の意味は、ラテン語で「力合わせて」です。

文学の丘 三つの文学碑

図書館旧館八角塔脇の小高い丘に三つの文学碑が建っています。


・佐藤春夫詩碑

佐藤春夫詩碑
昭和49年、門下生より寄贈されました。高さ95センチ、幅190センチの御影石の碑には、佐藤春夫の青春の唄ともいうべき四行詩「さまよひ来れば 秋草の ひとつ残りて咲きにけり おもかげ見えてなつかしく 手折ればくるし花散りぬ」が刻まれています。碑の前の筆塚には春夫遺愛の万年筆が納められています。



・吉野秀雄歌碑

吉野秀雄歌碑
義塾卒業の歌人である吉野秀雄を偲び、昭和47年7月1日、彼の7回忌に大正14年卒業の同期の友人たちの醸金で建てられました。高さ140センチの根府川産の自然石の碑面には、学生時代に詠んだ歌「図書館の前に沈丁咲くころは恋も試験も苦しかりにき」が刻まれています。



・久保田万太郎句碑

久保田万太郎句碑
昭和48年、久保田万太郎没後10年を機に設置されました。高さ110センチの台湾産白大理石に黒御影を嵌めこんだ碑面には、小山内薫を偲んだ句「しぐるゝや大講堂の赤れんが」が刻まれています。

日吉キャンパス

小泉信三記念碑

小泉信三記念碑
昭和43年、体育会庭球部テニスコート脇に建立されました。小泉信三は昭和8年~22年に慶應義塾の塾長を務めた経済学者・教育者であり、優れた文筆家でもありました。また、スポーツマンとしても体育会庭球部の選手として活躍し、その後体育会庭球部の部長を務めた大正11年から10年間には、庭球部が日本一に輝き、慶應義塾の庭球部は“庭球王国”と呼ばれました。碑には「練習ハ不可能ヲ可能二ス」と刻まれています。これは小泉信三が平生好んで口にした言葉で、今日では、 庭球部をはじめとする体育会各部だけでなく、多くの人々の座右の銘となっています。

日本ラグビー蹴球発祥記念碑

日本ラグビー蹴球発祥記念碑
ラグビーは1899年に、当時慶應義塾の英文学教員であったE・B・クラークによって日本に紹介されたといわれています。ケンブリッジ大学のラグビー選手であったクラークは 、同じくケンブリッジで学んだ友人、田中銀之助と共に慶應義塾の学生にラグビーを教え、晩夏から冬にかけて屋外で何もすることがなく退屈していた彼らに 「時間と天気を無駄にしないように」と指導しました。その後ラグビーは京都の三高や同志社に伝わり、学校スポーツとして普及するようになりました。この記念碑は昭和18年、「黒黄会」(慶應義塾体育会蹴球部OB会)によりラグビー場(日吉キャンパスと駅をはさんで逆方面、下田地区にあるグラウンド)に設置されました。

信濃町キャンパス

医学部食養研究所跡地記念碑

医学部食養研究所跡地記念碑
食養研究所は大正15年に益田孝ら財界人の厚意により設立され、栄養増進、食事療法、ビタミン学の研究等が行われていました。昭和2年には臨床細菌研究室も併設、栄養研究に加えて医学部の研究拠点として、臨床と基礎の共同研究が推進されました。昭和8年には医学部食養研究所の研究成果実践の場として大学病院に病院食養部が設置され、日本初の病院給食へとつながっています。食養研究所は平成2年11月27日に幕を閉じるまで、慶應義塾医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献しました。碑の後方には医学部食養研究所の壁の一部が残されています。

湘南藤沢キャンパス

三田会の杜記念碑

三田会の杜記念碑
湘南藤沢キャンパス緑化計画実現のために卒業生から集められた寄付により、平成5年に建てられました。表面には「湘南藤沢キャンパス開設に伴う緑化計画 は・・・・この湘南藤沢の地に義塾社中の伝統と気風が植樹の成長と共にはぐくまれていることを記念してその名を刻するものである・・・・」と、裏面には寄付をした三田会の名称が刻まれています。この寄付により植えられた、かつて小さかった木々も今は立派に育っています。

旅人かへらずの碑

旅人かへらずの碑
英文学者・詩人で元文学部長の西脇順三郎(大正6年慶應義塾理財科卒)の詩碑です。詩集「旅人かへらず」冒頭の一節が強化ガラスに刻まれています。「旅人は待てよ このかすかな泉に 舌を濡らす前に考へよ人生の旅人」
この詩碑の建立は卒業生からの寄贈によるもので、ガリバー池東側に設置されました。

その他

福澤諭吉誕生地記念碑

福澤諭吉誕生地記念碑
福澤諭吉は天保5年12月12日(西暦:1835年1月10日)大阪で生まれました。「福澤諭吉誕生地記念碑」は、大阪市福島区にある堂島玉江(たまえ)橋北詰にあたる誕生地を記念して明治36年、福澤歿後の三回忌に大阪在住の塾員(卒業生)間で、記念碑建立が発議されたのが契機であるとされていますが、誕生地記念碑が建ったのは昭和4年11月とされ、当時碑は鋳銅製の円塔で、塔身約60センチ、高さ3メートル、犬養毅元首相の筆で「福澤先生誕生地」と書かれていました。間もなく戦時下の銅鉄製品回収で供出を余儀なくされ、戦後昭和29年に至り関係者の尽力で漸く再建されました。鳩を象った御影石の碑(高さ1メートル66センチ、全幅1メートル33センチ)には小泉信三元塾長の筆で「福澤諭吉誕生地」と記されています。

慶應義塾発祥の地記念碑

慶應義塾発祥の地記念碑
慶應義塾は1858(安政5)年に福澤諭吉が江戸の中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学塾に端を発します。慶應義塾の建築物を数多く手がけた谷口吉郎の設計による「慶應義塾発祥の地記念碑」は、慶應義塾創立100年を機に建立されたもので、開塾の地からほど近い東京都中央区明石町の聖路加国際病院前に設けられています。同地は奇しくも、中津藩医であった前野良沢らにより解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳が始まった場所であり、その業績を称えた「日本洋学発祥の地記念碑」とともに、「慶應義塾発祥の地記念碑」は「日本近代文化事始の地記念碑」と称されています。

大阪慶應義塾跡記念碑

大阪慶應義塾跡記念碑
大阪慶應義塾は、1873(明治6)年11月から1875(同8)年6月の間、大阪の北浜町二丁目の小寺篤兵衛屋敷内(現在の大阪市中央区北浜二丁目)に慶應義塾の分校として開設されていました。現在の土地所有者である小寺良和氏のご厚意により、2009年1月、敷地内に「大阪慶應義塾跡記念碑」を設置されました。ペンマークをモチーフとした石塔に「独立自尊」の碑文が記されています。

徳島慶應義塾跡記念碑

徳島慶應義塾跡記念碑
徳島慶應義塾は、1875(明治8)年から1876(同9)年に徳島にあった慶應義塾の分校です。徳島慶應義塾の設立年にちなんだ高さ1875mmの「人の字」を表すモニュメント石塔と、『独立自尊』と刻まれた徳島慶應義塾跡記念碑は、2001年4月、福澤先生没後百年を機に徳島県の卒業生組織である徳島慶應倶楽部が建立しました。2009年7月に移設され、現在は徳島県庁敷地内設置されています。

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