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慶應義塾の文化財

慶應義塾では、2つの建物、5つの図書館所蔵資料、2つの考古学的出土品、そして国宝でもある「秋草文壺」の計10点の国宝および重要文化財を所蔵しています。ご存知のとおり文化財の指定には、国宝と重要文化財がありますが、国宝は重要文化財のうち極めて美術的に優秀なもの、もしくは学術的価値の高いものが指定されます。
ここでは、慶應義塾の文化財をご紹介します。

建物

三田演説館

三田演説館
「演説」がわが国で初めて試みられたのは明冶6(1873)年。福澤先生を中心に門下生数名が西洋のスピーチ(演説)、ディベート(討論)の法を研究して創始しました。翌7(1874)年6月第1回の演説会を開き、ついで建てられたのがこの演説館で開館は明治8(1875)年5月1日になります。当初は現在の図書館旧館と 塾監局との中間に建てられましたが、大正13(1924)年に移築され現在の場所になりました。その後、昭和22(1947)年5月の修復、平成7(1995)年解体修復が施され、平成9(1997)年4月から現在の姿となっています。

構えは木造瓦葺、洋風、なまこ壁、床面積58坪余(192.16㎡)で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余(290.34㎡)。アメリカから種々の会堂の図面を取り寄せ、それを参考に千数百円を投じて造られたといいます。昭和42(1967)年6月に重要文化財に指定。現在は、春秋2回の三田演説会のほかウェーランド経済書講述記念講演会などの会場としても使用されています。

図書館旧館

図書館旧館
図書館旧館は義塾創立50年を記念し、明治45(1912)年4月に築造されたもので、曾根達蔵・中条精一郎両氏の設計により、 戸田組施工の下に全額寄付金による予算23万円を費して建てられました。その後、関東大震災や第二次世界大戦の災害を受けつつ、なお現在も建築当初の遺構をとどめています。

様式は純ゴシック式で、構造は壁体を赤煉瓦とし御影石を交え、外壁に美しい大時計を配するなど壮麗を極めています。明治末期の煉瓦建築の代表的遺構であるとの評価に基き、昭和44(1969)年3月12日国の重要文化財に指定されました。現在は、書庫や会議室として利用されていま す。また、入り口ホールの階段上を飾るステンドグラス「ペンは剣より強し」は義塾のシンボルともなっています。

図書館所蔵資料

「大かうさまくんきのうち」 太田和泉守牛一撰 自筆稿本

図書館所蔵資料
「太閣様軍記の中」と題するこの書は、織田信長から豊臣秀吉にかけて文筆をもって仕えた太田和泉守牛一の自撰自筆、原装の写本です。

太田和泉守牛一は尾張に生まれ、山田庄常観寺に入って僧となり、信長に仕えましたが、本能寺の変後に伊賀に幽居。慶長元(1596)年に秀吉に召し出されて和泉寺に任官し、没後には秀頼にも仕えました。

この蔵書は21.0×11.7cm、表紙は厚手鳥の子紙に渋を引いたもの、大体本文はひらがなで記されています。内容は、天皇の御盛徳をたたえ、秀次の謀叛と悲惨な滅亡、時代をさかのぼって奥雄、三好氏、松永氏、斎藤道三の興亡、光秀の謀反、小田原征伐、聚楽第行幸、征韓の役、伏見築城、若君誕生、醍醐花見の事などの実録となっており、真実を伝えて人を動かすものがあります。昭和49(1974)年6月、重要文化財に指定され、現在はメディアセンターの貴重書室に所蔵されています。

「後鳥羽院御抄並越部禅尼消息」

「後鳥羽院御抄並越部禅尼消息」
「御鳥羽院御抄」は後鳥羽院御撰といわれ、和歌の心得を記しつつ当時の歌人を品評したもので、「越部禅尼消息」は、藤原俊成(道長の系譜を引く御子左家の出、定家の父)の養女である越部禅尼が「続後撰集」が出来上がったとき、この撰者である甥の藤原為家にあてた歴代の撰集の論評や消息です。

この蔵書は、鎌倉末南北朝間の歌壇の第一人者である頓阿が、「御鳥羽院御抄」と「越部禅尼消息」の両書をある人に書き写させて合本にし、巻末に観応2(1351)年9月9日の自筆奥書を署したもので歌論史上重要な資料となっています。

外箱は桐、内箱は黒漆ぬり、外箱は墨、内箱金泥でともに「御鳥羽院御抄 冷泉為秀卿筆 奥書 頓阿筆」と記されています。表紙は約20.6× 14.2cm(6.8×4.7寸)で銀泥の松竹鶴亀模様が配されています。昭和49(1974)年6月、重要文化財に指定され、現在はメディアセンターの貴重書室に所蔵されています。

「相良家文書」

「相良家文書」
「相良家文書」とは、九州の肥後国の南、人吉にある相良家の鎌倉から江戸時代にかけての文書1,200点あまりで、内容は、代々相良氏に宛てられた諸家からの手紙や、朝廷、幕府からの命令書、また相良氏より諸方面に出された手紙類の下書きなどです。相良家は鎌倉時代のはじめから人吉に所領を有した豪族で、幕府へ仕えこの地の地頭の職にありました。南北朝時代から室町時代、さらには戦国時代という、むずかしい時代を無事乗り越えて、江戸時代はじめに人吉2万2千石の大名となり明治維新に至りました。このように同じ地を離れることなく700年余りも、家が続くことは日本史上珍しいことです。 文書はいずれも保存がよく、かつ一貫性があり、封建社会の政治、経済、文化の推移を知るための貴重な史料となっています。所蔵の文書は鎌倉時代のもの63点、南北朝時代のもの(廼武より元中明徳の頃まで)128点、室町時代と戦国時代のもの(天正10年まで)約500点、江戸時代以後のもの約500点から成っています。昭和52(1977)年6月重要文化財に指定され、現在はメディアセンターの貴重書室に所蔵されています。

「解剖存真図」

「解剖存真図」
「解剖存真図」は、江戸時代後期の医師南小柿寧一によって描かれた2巻の彩色された人体解剖図集です。これは、京都の医師小石元俊による解剖の成果の不十分な点を補うことを意図し「ターヘルアナトミア」を記したドイツ人医師クルムス等の西洋解剖学なども参照して40余体から一体ごとに一臓一腑を観察して医師自ら描いたことに意義があるとされています。19世紀前半に日本人によって描かれた最高の解剖図と言われ、83図が掲載されています。

シーボルトがオランダ語で書いた賛辞が書き込んであるほか、巻末には宇田川玄真、大槻玄沢の跋文(ばつぶん)が寄せられています。江戸時代の実証的解剖図の到達点を示す資料として、我が国医学史上意義深いと評価され、平成15(2003)年3月に重要文化財に指定されました。現在はメディアセンターの貴重書室に所蔵されています。

対馬宗家関係資料

「対馬宗家関係資料」は、対馬宗家文書として江戸時代に対馬藩(現長崎県)の藩主であった宗家に伝来した古文書・古記録です。室町時代から明治初頭まで、日本と朝鮮の間の外交・貿易を独占的に担った宗家で作成・保存された文書の内容は国際色に富み、総点数も十数万点といわれる膨大なものとなっています。 明治5年に朝鮮外交の管轄が外務省へ移ったのち、義塾では、明治45年、かつて江戸の対馬藩邸に保存されていた記録類約1,000点を有償で譲り受け、そのうちの895点が重要文化財に指定されています。朝鮮通信使に関する記録類が含まれ、江戸時代の外交を知る上で貴重な資料です。 現在はメディアセンターの貴重書室に所蔵されています。

考古学的出土品

日吉矢上古墳出土品

日吉矢上古墳出土品
日吉矢上古墳は、昭和11(1936)年10月8日、間崎万里・松本信廣両文学部教授が学生を連れて日吉予科敷地の北700mほどの丘陵上にある矢上谷戸貝塚へ久し振りに捜索に行った際に偶然に発見されました。当時、校地整備のための土木工事が進んでいましたが、関係各方面に了解を取り14日から調査、実際の発掘調査は15・16日にわたって行われました。

古墳内部は粘土床、径25m、高さ4m足らずの小さな円墳ですが、埋蔵品は量質ともに当時他に類のないものでした。出土されたのは銅鏡2面、各種玉類1,700点あまり、鉄剣1口分、竹櫛1枚など。このうち銅鏡はきわめて優秀な倣製鏡で、また2面が同一の鋳型からつくられていること、瑠璃丸玉・瑠璃小玉をはじめとする各種玉類が種類・数量ともに豊富などの理由から昭和15(1940)年5月に国宝に指定、後28(1953)年重要文化財に指定変更され現在に至っています。

岩偶と岩版

岩偶と岩版
岩偶とは人の形をやわらかい石質の砂岩(さがん)や凝灰岩(ぎょうかいがん)質泥岩などで製作されたもの、岩版は岩偶と同じような石材で方形や楕円形をしたもので、いずれも宗教的な遺物と考えられています。重要文化財に指定されているこの岩偶と岩版は、秋田県鹿角郡小坂町大字杉沢字内袋(うちのたい)(十和田湖山麓あたり)から出土されたもので縄文文化前期末ごろのものです。

岩偶は高さ15cm、厚さは厚い部分で2.5cmほど、頭部は目・鼻・耳・口などの表現はなく両腕を両側に伸ばし関節で曲げられ、胸に手をあてたような姿が表現されています。岩版は高さ10.2cm厚さは中心部で約1cm、上方には0.5cmほどの孔が2つあいており、両面に円筒式土器模様をそのままうつしとった細かい列点文があります。昭和49(1974)年6月に重要文化財に指定されています。

国宝

秋草文壺

秋草文壺
昭和17(1942)年4月に日吉キャンパスの東南東約1.5kmの加瀬山と呼ばれる丘陵の東麓、白山古墳の後円部下側から土取り工事中に偶然発見されました。完全な形で掘り出されたこの壺は、粘土を敷きつめ河原石を積んだ遺構の中に置かれており、壺の中には火葬された人骨が詰まっていたので、骨壺として埋葬されたと考えられています。 高さ42cm、口径16cm、胴部径29cm、底部径14cm、口はやや外反して胴の上部が最もふくらみ、底に向かってすぼまっていく優雅な形。さらに緑色の粕薬がかかっていて、ススキ・ウリなどの秋草文様が箆(へら)で描かれています。口縁部内面には「上」の字の箆書もあり、平安時代末の12世紀後半頃に愛知県の常滑の古窯で焼かれたものと考えられています。昭和28年(1953)3月に国宝に指定され、現在は東京国立博物館にあり、展示公開されている場合もあります。

(定期的に展示品の入れ替えがありますので、展示の状況は東京国立博物館 電話03-3822-1111にご確認ください。)


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