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福澤諭吉年譜
慶應義塾の創立者、福澤諭吉の生涯を年譜形式で紹介します。
※年齢は数え年の数字を示しています。
※年齢は数え年の数字を示しています。
1834~1859(1歳~26歳)
| 西暦(年号) | 年齢 | 事歴 | 著作 |
|---|---|---|---|
| 1834(1835) (天保5) |
1 | 天保5年 12月12日(西暦1835年1月10日)大阪玉江橋北詰中津藩蔵屋敷(いまは福澤誕生地記念碑が建っている)に生まれる。 諭吉の名は、その誕生の日に父百助が手に入れた「上諭条例」という書名に因んだものである。 |
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| 1836 (天保7) |
3 | 6月18日 父百助が病死し、母子6人中津に帰る。兄三之助が家督を相続する。 | |
| 1837 (天保8) |
4 | 家風が中津の風に合わない。 | |
| 幼少のときから酒が好きで、手先は器用であったが、木登りと水泳はできない。 また叔父中村術平の養子となり、中村姓を名乗っていた。 12、3歳ごろから種々の迷信や神仏などについて疑いを持ちはじめる。 14、5歳ごろから白石常人について漢学を学びはじめたが、たちまち学力が上達し、なかでも左伝が得意だった。 また居合いを中村庄兵衛に学ぶ。 | |||
| 1853 (嘉永6) |
20 | このころから内職して家計を助けたが、成長するにつれて封建門閥制度の束縛をいきどおる。 | |
| 1854 (安政元) |
21 | 2月、兄三之助にすすめられ、蘭学を志して長崎に出る。同藩家老の子奥平壱岐を頼り、長崎桶屋町光永寺に下宿し、さらに砲術家山本物次郎の書生となり、山本家の用事一切を引き受けて働く。その傍らオランダ通詞または蘭方医などについて、オランダ語の初歩を学ぶ。 | |
| 1855 (安政2) |
22 | 学業の上達の早いため奥平壱岐にねたまれ、2月その奸計により長崎を去らねばならなくなる。江戸に行くつもりで大阪に来たとき、兄三之助にすすめられて3月9日緒方洪庵の適塾に入門する。 | |
| 1856 (安政3) |
3月 腸チフスにかかったが、洪庵の手厚い看護で全快。5、6月ごろ兄の任期が終わり、病後の保養かたがた兄弟そろって中津に帰る。 8月 また大阪に出て緒方塾に通学していたが、兄三之助が9月3日病死したとの知らせをうけ中津に帰る。福澤家の家督をつぎ、福澤姓に復する。 帰郷中、奥平壱岐からペルの築城書を借りてひそかにその写本をつくる。 再遊の念やみがたく、母の許しを得て家財道具を売り払い、家の負債の始末をする。 11月 大阪に出て緒方の内塾生となる。 |
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| 1857 (安政4) |
24 | 緒方塾に在学しこの年塾長となる。 この塾では、主として生理学、医学、物理学、化学などの原書を読み、種々の実験を試み、ファラデーの電気学説にもふれる機会を得た。また禁酒を試みたが続かず、却って煙草のみになるなど、愉快な塾生生活を楽しむ。 | |
| 1858 (安政5) |
25 | 藩の命令で江戸に出ることになり、まず中津に帰って母に別れを告げ、緒方塾から岡本周吉(後の古川節蔵)をつれて10月中旬に江戸に着く。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷のなかの小さな長屋の1軒で蘭学の家塾を開く--慶應義塾の起源。 慶應義塾の起源 |
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| 1859 (安政6) |
26 | この年横浜を見物して、これまで学んだオランダ語が実地の役に立たぬことを知り落胆するが思いきって英語に転向する。よい先生がないので、辞書をたよりに独学で研究をはじめる。 | ペルの築城書を翻訳 (出版せず) |
1860~1873(27歳~40歳)
| 西暦(年号) | 年齢 | 事歴 | 著作 |
|---|---|---|---|
| 1860 (万延元) |
27 | 1月19日 軍艦咸臨丸に乗って浦賀を発ち、37日を費やしてサンフランシスコに着き、閏3月19日同港を出発して途中ハワイに寄り5月5日に帰国する。この旅行で中浜万次郎と共にウェブスターの辞書を買って帰る。日本人の手による同辞書輸入のはじまりという。帰朝後幕府の翻訳方に雇われる。
このころ鉄砲洲から新銭座に転居する。 咸臨丸 |
増訂華英通語 |
| 1861 (文久元) |
28 | 冬、中津藩士土岐太郎八の二女錦と結婚する。 12月 ヨーロッパ派遣の幕府使節の随員となる。 | |
| 1862 (文久2) |
29 | 1月1日 長崎を発し、印度洋から紅海を経てスエズの地峡を汽車で越え地中海を渡りマルセイユに着く。そこからフランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシヤ、ポルトガルを巡り、12月11日帰朝する。 | |
| 1863 (文久3) |
30 | 6月10日、恩師緒方洪庵死去。 秋ごろ新銭座から、また鉄砲洲の奥平家中屋敷に引越す。 10月 長男一太郎生まれる。 このころ攘夷論が盛んであったので、洋学者の身辺が危険なため夜間はほとんど外出しなかった。 | |
| 1864 (元治元) |
31 | 3月23日 江戸を発ち中津に帰省し6年ぶりで母と会う。滞在2ヵ月小幡篤次郎ほか6人の青年を伴い6月26日江戸へ帰る。 長州征伐に中津からつれてきた塾生の帰藩をとめる。 10月 幕府に召し抱えられて外国奉行翻訳方に出仕することになる。禄高100俵、勤役中50俵増高。 | |
| 1865 (慶應元) |
32 | 公務の傍ら横文字の新聞雑誌などを翻訳して諸藩の留守居役に買ってもらい、その収入で中津からつれてきた塾生の学費をまかなう。 9月 次男捨次郎生まれる。 |
唐人往来(出版せず) 海岸防禦論を翻訳 (出版せず) |
| 1866 (慶應2) |
33 |
このころから節酒を始める。 秋のころ刀剣を売り払う。 |
雷銃操法・巻之一 西洋事情・初編 |
| 1867 (慶應3) |
34 | 1月23日 幕府の軍艦受取委員の随員として再びアメリカに行き、東部諸州の諸都市を見て6月27日帰朝、土産に多くの原書を買って帰る。 12月25日 新銭座の有馬家控屋敷を355両で買い取る。 |
西洋旅案内 条約十一国記 西洋衣食住 |
| 1868 (明治元、 慶應4) |
35 |
4月 鉄砲洲から新銭座に移り、時の年号(9月改元)に因んで慶應義塾と名づける。 同月 長女里が生まれる。 5月15日 上野彰義隊の戦の砲声を耳にしながらウェーランド経済書の講義をする。 8月ごろ幕臣をやめて帰農。 この年明治新政府よりたびたび出仕を命ぜられたが、固辞する。 |
西洋事情・外編 雷銃操法・巻之二 訓蒙窮理図解 兵士懐中便覧 |
| 1869 (明治2) |
36 | このころ中津藩から受けていた六人扶持も辞退する。 授業料の制度をはじめてつくる。 月ごろから榎本武揚の助命のために奔走し糾問所で母子対面の運びをつける。 |
洋兵明鑑 掌中万国一覧 英国議事院談 清英交際始末 世界国尽 |
| 1870 (明治3) |
37 | 5月中旬 発疹チフスにかかる。 7月 次女房が生まれる。 この年の冬東京府の頼みで西洋の警察制度を取り調べて報告書を出す。 閏10月28日 東京を発ち中津に行き母を迎えて帰郷、郷里にいる間に藩の重役から藩政につき意見を求められ、武備の全廃と洋学校の設立を説く。 このとき増田宋太郎らに暗殺されようとして危うくのがれる。 11月 三田の島原藩邸を借り受けその建物の払い下げに成功。 |
雷銃操法・巻之三 洋事情・二編 |
| 1871 (明治4) |
38 | 3月 慶應義塾を新銭座から三田に移し、これと共に転居する。 | 啓蒙手習之文 |
| 1872 (明治5) |
39 |
4月 京阪神を経て中津に旅行し7月帰京。 5月 政府から借用中の慶應義塾敷地の払い下げを受ける。 |
学問のすゝめ・初編 童蒙教卓・初編~二編 かたわ娘 |
| 1873 (明治6) |
40 | 梅雨のころから自宅で集会を催して演説討論の練習を始める。 8月 三女俊が生まれる。 |
改暦弁 帳合之法・初編 日本地図草紙 文字之教、 学問のすゝめ ・二編~三編 会議弁 |
1874~1888(41歳~55歳)
| 西暦(年号) | 年齢 | 事歴 | 著作 |
|---|---|---|---|
| 1874 (明治7) |
41 |
2月 民間雑誌刊。 5月8日 母お順死去。 6月 三田演説会発会。 演説の創始 |
学問のすゝめ ・四編~十三編 帳合之法・二編 |
| 1875 (明治8) |
42 |
5月1日 三田演説館開館。 6月 民間雑誌廃刊。 三田演説館 |
学問のすゝめ・十四編 文明論之概略 |
| 1876 (明治9) |
43 |
3月 四女滝が生まれる。 5、6月ころ 長男次男の2人を伴い京阪地方に遊ぶ。 9月 家庭叢談を発刊。 |
学者安心論 学問のすゝめ・ 十五編~十七編 |
| 1877 (明治10) |
44 | 4月 家庭叢談を民間雑誌と改題し週刊雑誌として発足。 |
旧藩情(5月脱稿、 当時出版せず) 丁丑公論(10月脱稿、 当時出版せず) 分権論 民間経済録・初編 |
| 1878 (明治11) |
45 |
3月 民間雑誌を日刊にする。 5月 民間雑誌を189号で廃刊にする。 12月 芝区から東京府会議員に選出される。 |
福澤文集 通貨論 通俗民権論 通俗国権論 |
| 1879 (明治12) |
46 |
1月 東京学士会院(今の日本学士院)が設立されその初代会長に選ばれる。 3月 五女光が生まれる。 7月 国会論を書き、藤田、箕浦の名前で郵便報知新聞に発表する。 |
通俗国権論二一編 福澤文集・二編 国会論 民情一新 |
| 1880 (明治13) |
47 | 1月 交詢社を起こす。また東京府会議員を辞す。 12月 大隈、伊藤、井上と会見し政府の機関新聞紙の引き受けを頼まれる。 | 民間経済録・二編 |
| 1881 (明治14) |
48 |
1月 井上馨を訪ねて新聞紙引き受けのことを断ったところ、政府に国会開設の意のあることを打ち明けられ、協力を約束する。 7月 三男三八が生まれる。 10月 いわゆる明治14年の政変によりあらぬ嫌疑を受け、事の真相を記した「明治辛巳紀事」と題する記録を作って手許に秘蔵するとともに、伊藤、井上に対し新聞紙引き受けの経緯を述べてその違約を詰問する。 |
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| 1882 (明治15) |
49 | 3月1日 時事新報を発刊。 | 民間経済録・二編 |
| 1883 (明治16) |
50 |
6月 一太郎、捨次郎の二子がアメリカに留学。 7月 四男大四郎が生まれる。 |
学問之独立 |
| 1884 (明治17) |
51 |
全国徴兵論 通俗外交論 |
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| 1885 (明治18) |
52 |
日本婦人論・後編 士人処世論 品行論 |
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| 1886 (明治19) |
53 |
3月 全国漫遊を思い立ち、まず東海道旅行をくわだてる。 5月 茨城地方の漫遊を試みる。 |
男女交際論 |
| 1887 (明治20) |
54 | 3月 新富座にてはじめて芝居を見る。 | |
| 1888 (明治21) |
55 |
3月 井上角五郎の証人として法廷に呼び出される。 11月 一太郎、捨次郎がアメリカ留学をおえて帰朝。 |
日本男子論 尊王論 |
1889~1901(56歳~68歳)
| 西暦(年号) | 年齢 | 事歴 | 著作 |
|---|---|---|---|
| 1889 (明治22) |
56 | 9月 全家族を伴い京阪地方に漫遊。 | |
| 1890 (明治23) |
57 | 1月 慶應義塾大学部が設置され、文学.法律.理財の三科を置く。 大学部の発足
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| 1891 (明治24) |
58 | 痩我慢の説(11月脱稿 ・当時出版せず) |
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| 1892 (明治25) |
59 |
4、5月 京阪山陽地方に旅行。 11月 北里柴三郎を援けて伝染病研究所の設立に尽力する。 福澤先生と北里柴三郎
|
痩我慢の説(11月脱稿 ・当時出版せず) |
| 1893 (明治26) |
60 | 9月 北里の土筆ヵ岡養生園開設。 | 実業論 |
| 1894 (明治27) |
61 | 2月 一太郎と捨次郎の二子をつれて中津に行く。 | |
| 1895 (明治28) |
62 |
3月 妻と子女とを伴い広島に行く。 12月12日 還暦の祝宴を開く。 |
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| 1896 (明治29) |
63 |
4月 家族とともに伊勢に詣る。 11月 家族を伴い信越上州方面へ旅行。 |
福翁百話 福澤全集緒言 |
| 1897 (明治30) |
64 |
8月 慶應義塾基本金募集 11月 家族とともに京阪山陽方面へ旅行。 |
福澤全集・全五巻 福澤先生浮世談 |
| 1898 (明治31) |
65 |
5月 「福翁自伝」脱稿。 この頃の身長5尺7寸3、4分、体重17貫500匁。 9月26日 脳溢血症にかかる。 |
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| 1899 (明治32) |
66 |
福翁自伝 女大学評論・新女大学 |
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| 1900 (明治33) |
67 |
2月 門下の先進者に編纂させた「修身要領」を発表。 5月 著訳教育の功労により皇室から金5万円を下賜されたが、直ちにこれを慶應義塾基本金中に寄附する。 |
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| 1901 (明治34) |
68 |
1月25日 脳溢血症再発。 2月3日午後10時50分 三田慶應義塾内の自邸にて長逝(いまその地に「福澤諭吉終焉の地」の記念碑が建っている)。 同月8日 葬儀。東京府下大崎村本願寺内(現在は品川区上大崎1丁目常光寺内)に葬ったが、昭和52年、墓所を東京都港区元麻布1丁目善福寺に移した。なお、常光寺には昭和53年「福澤諭吉埋葬地跡記念碑」(設計谷口吉郎)が建てられた。 福澤諭吉終焉之地記念碑 福澤先生墓所 |
福翁百余話 明治十年丁丑公論・ 痩我慢の説 |

























