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[塾員山脈] 大橋俊夫君(フリーアナウンサー・ラジオパーソナリティ)

2013/02/18 (「塾」2013年WINTER(No.277)掲載)
※職名等は掲載時のものです。

ニュースを伝え、トークでなごませ、朗読で泣かせる。
その声はいつも聴く者の心にすっと入り込む

大橋俊夫君
【おおはし としお】1952年大阪府生まれ。4歳から東京で育ち慶應義塾高等学校、大学経済学部を卒業。1976年、株式会社エフエム東京にアナウンサーとして就職。1995年に退社してフリーに。現在TOKYO FM、JFN系ラジオ放送をメインに、テレビ、CMのナレーションなどで活躍中。朗読・ナレーション講座の講師として指導にもあたる。2007年からはJR北海道の車内自動音声放送の声を担当し、道民はもとより、旅行者にも親しまれている。

マンガ家、編集者志望を経てFM局のアナウンサーに

——エフエム東京のアナウンサーを経て、現在はフリーのアナウンサー、ナレーターとして活躍中の大橋俊夫さん。TOKYO FMの「TFMニュース」やJFN(ジャパンエフエムネットワーク)系列全国27局ネットで放送されている「DAILY FLYER」などで、その声を聴くことができます。近年ではJR北海道の車内自動音声の声を担当。その「魅惑のボイス」が注目され、着うた®などで配信もされています。主たる活動の場はラジオですが、テレビの報道番組やバラエティ番組、CMのナレーターとしても活躍しています。その声は柔らかく耳に心地よいだけでなく、優しい人柄を感じさせる温かさに満ちています。
アナウンサーを志したきっかけは何だったのでしょうか?


(大橋)
慶應義塾高等学校の頃は、手塚治虫に傾倒するマンガ家志望の学生でした。義塾の経済学部に進んでからは、仲間と同人誌を出したものの2号でポシャってしまい、マンガの才能には見切りをつけました。しかし、出版社の編集者になってマンガに携わりたいという思いは持ち続けていました。
一方で、朗読にも魅力を感じていました。高校生対象の朗読コンテストに、三好達治の詩の朗読を録音したカセットテープを送り、優勝したこともあります。マンガと朗読はまったく別世界のようですが、表現するという点ではどちらも同じ。何かを表現する仕事をしたいという思いは一貫していました。
就職活動では、出版社とラジオ局のアナウンサーに絞っていました。幸か不幸か小学館とエフエム東京の最終面接まで進むことができ、どちらの道にゆこうか本当に悩みました。そこで決め手になったのは、希望の職種に就ける可能性でした。新卒で出版社に入ったとしても、編集者になれるとは限りませんが、アナウンサーで受けているラジオ局なら必ず声で表現する仕事ができます。そう考えて、エフエム東京の試験を受けて合格し、アナウンサーになったのです。
ラジオ番組の様子
——ラジオ局アナウンサーの新人時代は、どのような様子なのでしょうか。

(大橋)
基本的に報道局所属のアナウンサーとして採用されますから、入社してすぐは報道の基礎知識とニュースの読み方をみっちり仕込まれました。
デビューは入社3カ月後の7月でした。初めての仕事はニュース読みではなく『僕は音楽だ』というフリートーク番組のDJ。今聞くとすごいタイトルでしょ。

——初めての番組出演である上にフリートーク番組なんて、緊張したでしょう。

(大橋)
いえ、それが全然。当時も今も、集中はしても仕事で緊張はしないんです。「緊張しないためにはどうすればいいのか」とよく聞かれますが、一度も経験がないのですから私には答える資格がありません(笑)。
とはいえ、新人時代はいろいろな失敗がありました。前日のニュース原稿を読んでしまい、始末書を書いたこともあります。もとはといえば通信社の出稿ミスなのですが、昨日のニュースと気がつかないとは何事だ、というわけです。

——アナウンサーとして印象深い出来事はありますか。

(大橋)
1995年に起きた阪神・淡路大震災のときのことでしょうか。地震発生時、朝の生ワイド番組のパーソナリティを担当していました。第一報では関西で大きな地震があったというだけで、そのまま通常の放送を続けていたのですが、徐々に被害の大きさが伝わってからは、いつものコーナーをとばして報道番組の様相になりました。ちなみに、この放送が私の局アナウンサーとしての最後の仕事になりました。
一昨年3月の東日本大震災翌日には、7時間の報道特別番組でニュース読みを担当しました。報道番組ですから事実は沈着冷静に伝えます。しかし、被災者の方からのメールなどを読むときには、送ってくれた方の気持ちも伝えたいと、自然に感情のこもった読み方になります。現場とリスナーを結ぶのもアナウンサーの仕事ですから、それはそれでいいと思っています。
バラエティ色の強いものも、『ビッグ・バン・トーキョー』(1992年4月〜95年3月)のメインパーソナリティや『中島みゆき お時間拝借』(1994年4月~97年9月)のナレーションなど、いろいろな番組を担当してきました。
——中島みゆきさんの大ファンだとか。

(大橋)
そうなんです。中島さんは、人生のさまざまなシーンにぴたりと合う楽曲をたくさん歌っていて、常に勇気を与えてくれる素晴らしいシンガーです。JFN系列の深夜放送番組『DAY BREAK』(2007年4月~10年3月)の月曜日を担当していたときは、選曲からトークまでほとんど私がやっていたのですが、映画音楽や懐かしいポップスに加えて、必ず中島みゆきさんの曲をかけました。もちろん、そこはファンですから、歌の魅力を伝える解説には、自ずと力が入りましたね。

——放送以外に、朗読の仕事にも取り組んでいると聞きました。

(大橋)
高校時代にコンテストで優勝したことはお話ししましたが、朗読は今も大好きで、一番好きと言ってもいいくらいです。朗読やナレーションは、元の文章や原稿があって誰が読んでも同じなので面白くない、と言う人もいますが、そんなことは決してありません。言葉がどう伝わるかは、語る人によってまったく違います。ただ意味を伝えるだけならコンピュータの合成音でもできますが、微妙な間の取り方や感情の込め方で、ニュアンスや情感を伝えるのは、人間の声でしかできないと思います。
たとえば「遠い町に灯りがともる」という文章があったとして、「遠い」はほんのちょっと離れている場所なのか、外国のようにうんと離れているのか、また「灯り」は一斉に明るくともるのか、ポツンと密やかにともるのかで、表現の方法は変わるはずです。自分でどう解釈して、どう表現するかで、伝わるものは大きく違ってきます。
大橋俊夫君
——具体的にはどのようなことを心がけて読むのですか?

(大橋)
朗読するストーリーの映像を頭に浮かべてカット割りをしながら語ります。「彼は窓を開けて外を見た」という文章があれば、彼と同一化して窓を開けて見えた外の風景を思い浮かべるのか、あるいは窓から顔を出した彼を外から見たシーンを思い浮かべるのかで、語りは異なるはず。細かいことのようですが、これが私のこだわりです。
その延長として、いつか声に身体や表情の演技を加味した一人芝居に挑戦したいと思っています。

——ところで、局の社員アナウンサーを辞めてフリーになることに不安はありませんでしたか。

(大橋)
辞めることに不安はなく、むしろサラリーマンを続けることが不安でした。社員であればある年代で管理職となり、デスクワークが増えていきますから。自分はまだまだ現場で表現し続けたいと、フリーになったのが42歳のとき。それから不安はありません。これからも可能な限り現場でしゃべり続けようと思っています。

敬遠されがちな“三理一哲”が大好きな授業だった

——義塾での思い出を聞かせてください。

(大橋)
経済学部でしたが、銀行にも商社にも行く気はなく、ゼミにも入っていませんでした。経済学の講義より一般教養の“三理一哲”といわれていた倫理・心理・論理と哲学の授業が面白かったですね。これらの授業は単位を取るのが難しく、学生から敬遠されていたのですが、へそ曲がりというか反骨というか、それならばと全部履修しました。なかでも面白かったのが論理学。柔軟かつ論理的であることを信条とする私にとっては、論理的な思考の一端を身につける有意義な機会であったと思っています。
サークルは、旅行会社と組んで学生向けの海外旅行を企画する会に所属していました。その企画旅行は、行き先がヨーロッパで滞在期間は1カ月。「どうせなら贅沢にしよう!」と、四つ星ホテルに泊まり、オリエント急行に乗り、急病に備えて慶應義塾大学病院のドクターが同行する豪華プランでした。代金は高かったのですが、時代が良かったのか、これが結構人気を集め、私も企画者割引でちょっぴり安くしてもらって行きました。モン・サン・ミッシェルに泊まったりして、楽しかったですよ。

——高校での朗読コンテスト優勝経験を生かして、何かなさらなかったんですか。

(大橋)
表現することに関心があったので、役者として劇団に参加していました。別役実や唐十郎のような当時多かった難解な演劇ではなく、仲間がオリジナルで書くエンターテインメント系の芝居です。「お金をもらうんだから僕らはひたすら楽しいもの、面白いものをやろう」と思っていました。一般の大きなホールでも上演し、かなり盛況でしたよ。その場で観客のリアクションが感じられるのが何より面白かったですね。表現する楽しさに夢中になりました。

自分の言葉で語るには、論理性と柔軟性が必要

——タロット占いが特技と伺いましたが。

(大橋)
学生時代にはやり、試しに始めてみたものが今も続いています。もともと珍しいトランプカードを収集するのが趣味で、タロットにも興味を引かれました。どうせならやってみようと占いの腕を磨き、今では恋愛占いには、ちょっと自信があります。娘の友達なんかによく占ってほしいと頼まれますね。
義塾でのことを振り返ると、勉強のことより、趣味や遊びの思い出のほうが多くなりますが(笑)、そんな学生時代がアナウンサー、ナレーター、朗読者としての基礎となっているのかもしれません。

——最後に塾生へのメッセージをお願いします。

(大橋)
他の人と同じではなく、自分にしかない個性を磨いてほしいと思います。たとえばアナウンサーの就職試験でも最終面接に近くなるほど、その人ならではの個性の輝きが求められます。アナウンスの学校でテクニックを身につけることもそれなりにいいとは思いますが、最後は柔軟な発想と論理的な思考をもとに、自分自身の言葉で語る力が求められます。たとえば駅で電車がなかなか来ないと、人は皆「事故かな、故障かな」と思うものです。これはすべて「遅れている」という発想で止まってしまうからです。もしかするとダイヤが変わったのかもしれないし、そもそも自分が間違ったホームにいるのかもしれない。「どうしてだろう」と思ったときに、ひとつの理由ではなく、5つ、6つと理由を考えることで、柔軟な発想力の訓練になり、多面的に物事を見る力が養われます。このことは、アナウンサーだけでなく、すべての人に大切なことだと思います。

——本日はありがとうございました。
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