メインカラムの始まり
[塾員山脈] 山村庸子君(観世流(梅若会)能楽師 声の道場 主宰)
2012/12/17 (「塾」2012年AUTUMN(No.276)掲載)
※職名等は掲載時のものです。
「心に響く声、心に届く言葉」を求めて“声の道場”を主宰する女性能楽師
塾生時代に熱中したのは、ボウリング
「心に響く声、心に届く言葉」を求めて“声の道場”を主宰する女性能楽師
塾生時代に熱中したのは、ボウリング
【やまむら ようこ】1948年福岡県浮羽郡(現・うきは市)生まれ。慶應義塾女子高等学校、大学商学部卒業後に能と出会い、稽古を始める。結婚、出産、子育てを経て、42歳の時、梅若六郎師の薦めでシテ方観世流師範となる。流派や性別を超えて能の可能性を探る“こころみの会”、息を使った自分本来の声をみつけるための“声の道場” を主宰。著書に『声の道場~日本の声が危ない~』(2010)、『声の道場Ⅱ~ハイハイ・ハイッのすすめ~』(2012)(ともに一世出版)がある。
義塾卒業後に福岡で能と出会い稽古にのめり込む
——山村庸子さんは、女性の能楽師です。能楽は歌舞伎と同じく男性だけの社会と思われがちなのですが、女性能楽師も活躍しているのですね。
(山村)
約650年の歴史を持つ能は、長い間、男性だけで演じられてきました。女性の能楽師が生まれたのは、戦後のことです。現在、能楽協会に登録している能楽師は約1400名で、そのうち約200名が女性です。私が玄人の能楽師になったのは1988年ですが、当時は女性能楽師といえば、ほとんどの方が、能に関係する家で生まれた方か、子どものころから稽古していた方でした。私は、両親が趣味で能の稽古をしていたとはいえ、能にはまったく関係のない家の育ちです。しかも、義塾時代はボウリングに熱中していて、能との出会いは、24歳と遅いスタートでした。
(山村)
約650年の歴史を持つ能は、長い間、男性だけで演じられてきました。女性の能楽師が生まれたのは、戦後のことです。現在、能楽協会に登録している能楽師は約1400名で、そのうち約200名が女性です。私が玄人の能楽師になったのは1988年ですが、当時は女性能楽師といえば、ほとんどの方が、能に関係する家で生まれた方か、子どものころから稽古していた方でした。私は、両親が趣味で能の稽古をしていたとはいえ、能にはまったく関係のない家の育ちです。しかも、義塾時代はボウリングに熱中していて、能との出会いは、24歳と遅いスタートでした。
——能のどんなところに惹かれたのでしょうか?
(山村)
東京での学生生活から7年ぶりに福岡の親元に戻ってみると、両親が自宅に能の先生をお招きし、八畳の座敷を改築した板敷きの舞台で稽古をしていました。親孝行のつもりで稽古に顔を出し、小鼓(こつづみ)を打ってみたところ、まったくいい音が出ません。それが悔しくて、ボウリングをやめて、熱心に稽古をするようになりました。能の囃子(はやし)に使われる楽器は、笛(能管(のうかん))、小鼓、大鼓(おおつづみ)、太鼓の4種で、これを“ 四拍子(しびょうし)”といいます。小鼓の次には笛、次は太鼓、そして大鼓というように、四拍子のすべてを稽古するようになりました。こうなると、もう能の虜(とりこ)です。もともと熱中しやすい性格ですし、何かに夢中になっている自分が好きなのだと思います。囃子と並行して仕舞も謡(うたい)(謡曲)も身につけたいと、結婚そっちのけで稽古に没頭しました(笑)。
能楽師になりたいという気持ちもありましたが、能の家の娘さんでもなるのは大変なのだから、私には無理だろうなと、趣味でやっていくことにしました。それでも「能が好き」という気持ちは変わらず、30歳で結婚する時も、能の稽古を続けることを条件に出したほどです。
——それが今や、プロの能楽師として活躍しています。どんな経緯があったのでしょうか。
(山村)
夫の仕事の関係で、結婚するとすぐに再び東京に暮らすようになり、福岡の先生から紹介していただいた梅若六郎先生(後に二代目梅若玄祥を名乗る)のもとで稽古を続けました。2人の子どもが生まれ、能から少し遠ざかりましたが、数年後、「能楽師を目指す女性が増えているので、そのための会をつくりたい。玄人の免状をとって参加しませんか」と先生からお誘いいただきました。下の子どもはまだ幼稚園に入ったばかりで随分迷いましたが、周りの応援もあり、能楽師の道を歩むことを決心しました。それがちょうど40歳の時です。師範の免状をいただいたのは42歳の時でした。
ちなみにシテ方には観世流の他に、金春(こんぱる)流、金剛流、宝生流、喜多流があります。シテ方は舞と謡が専門ですが、能は総合芸術ですから全体に通じている必要があります。結婚前の四拍子の稽古が能楽師としての道を開いてくれたのかもしれません。
(山村)
東京での学生生活から7年ぶりに福岡の親元に戻ってみると、両親が自宅に能の先生をお招きし、八畳の座敷を改築した板敷きの舞台で稽古をしていました。親孝行のつもりで稽古に顔を出し、小鼓(こつづみ)を打ってみたところ、まったくいい音が出ません。それが悔しくて、ボウリングをやめて、熱心に稽古をするようになりました。能の囃子(はやし)に使われる楽器は、笛(能管(のうかん))、小鼓、大鼓(おおつづみ)、太鼓の4種で、これを“ 四拍子(しびょうし)”といいます。小鼓の次には笛、次は太鼓、そして大鼓というように、四拍子のすべてを稽古するようになりました。こうなると、もう能の虜(とりこ)です。もともと熱中しやすい性格ですし、何かに夢中になっている自分が好きなのだと思います。囃子と並行して仕舞も謡(うたい)(謡曲)も身につけたいと、結婚そっちのけで稽古に没頭しました(笑)。
能楽師になりたいという気持ちもありましたが、能の家の娘さんでもなるのは大変なのだから、私には無理だろうなと、趣味でやっていくことにしました。それでも「能が好き」という気持ちは変わらず、30歳で結婚する時も、能の稽古を続けることを条件に出したほどです。
——それが今や、プロの能楽師として活躍しています。どんな経緯があったのでしょうか。
(山村)
夫の仕事の関係で、結婚するとすぐに再び東京に暮らすようになり、福岡の先生から紹介していただいた梅若六郎先生(後に二代目梅若玄祥を名乗る)のもとで稽古を続けました。2人の子どもが生まれ、能から少し遠ざかりましたが、数年後、「能楽師を目指す女性が増えているので、そのための会をつくりたい。玄人の免状をとって参加しませんか」と先生からお誘いいただきました。下の子どもはまだ幼稚園に入ったばかりで随分迷いましたが、周りの応援もあり、能楽師の道を歩むことを決心しました。それがちょうど40歳の時です。師範の免状をいただいたのは42歳の時でした。
ちなみにシテ方には観世流の他に、金春(こんぱる)流、金剛流、宝生流、喜多流があります。シテ方は舞と謡が専門ですが、能は総合芸術ですから全体に通じている必要があります。結婚前の四拍子の稽古が能楽師としての道を開いてくれたのかもしれません。
流派や性別を超えた“こころみの会”と和の発声を目指す“声の道場”
——その後、仕舞や謡の指導をするとともに、“こころみの会”を主宰。また“声の道場”という日本語のためのボイストレーニングの指導の場をつくり、『声の道場~日本の声が危ない~』などの著書も出されていますね。
(山村)
“こころみの会”は、女性の能を考えるのが主目的ですが、たくさんの先生方の協力を得ながら、流派や性別を超えて能の可能性を広げる、文字通りの試みの舞台で、今年活動13年目を迎え、4月に10回目の公演を行いました。能「蝉丸」では喜多流と観世流のともに30代の女性能楽師がシテとツレを演じ、地謡も女性で謡いました。私は地謡の一員であったほか、舞囃子「楊貴妃」を舞いました。狂言は7月に人間国宝になられた山本東次郎先生御一門にお願いしました。10回の公演で一応の成果を感じたこともあり、新たな目標のためにしばらく休むことにしています。
“声の道場”を始めたのは、2007年です。声のトレーニングを目的に能の謡の稽古に来る人が少しずつ増えてきたことがきっかけでした。その多くは演劇や朗読などで、声を使うことを仕事とする人たちでした。能の発声を学ぼうとした理由を尋ねると、舞台での声の通りが悪い、朗読で安定した声が出ないなどの悩みがあり、西洋式のボイストレーニングを受けたものの、日本語のセリフやナレーションへの適用に違和感があるというのです。また、能の稽古に関心を抱いても、敷居が高いイメージや先生について弟子になることにためらいを覚える人が多いという話も聞きました。つまり、そういった人たちのニーズは、能の芸を磨くというより、実践的に自分の声をよくしたいということなのです。
実は、世阿弥の著した『花伝書』のなかに「声出し口伝」というものがありますが、当時から息を使った謡の発声法を説いているのです。これは日本語の発声の基礎と通じています。そこで、俳優やナレーターを想定して直接的な能の稽古とは異なる、発声を主とした“声の道場”を開くことにしました。意外だったのは、実際に始めてみると声を職業にしている人ばかりではなく、「教室全体に声が通らない」という学校の先生や、歳をとって声が出にくくなったという主婦の方など、普通の人たちが受講者の半数を占めたことです。
(山村)
“こころみの会”は、女性の能を考えるのが主目的ですが、たくさんの先生方の協力を得ながら、流派や性別を超えて能の可能性を広げる、文字通りの試みの舞台で、今年活動13年目を迎え、4月に10回目の公演を行いました。能「蝉丸」では喜多流と観世流のともに30代の女性能楽師がシテとツレを演じ、地謡も女性で謡いました。私は地謡の一員であったほか、舞囃子「楊貴妃」を舞いました。狂言は7月に人間国宝になられた山本東次郎先生御一門にお願いしました。10回の公演で一応の成果を感じたこともあり、新たな目標のためにしばらく休むことにしています。
“声の道場”を始めたのは、2007年です。声のトレーニングを目的に能の謡の稽古に来る人が少しずつ増えてきたことがきっかけでした。その多くは演劇や朗読などで、声を使うことを仕事とする人たちでした。能の発声を学ぼうとした理由を尋ねると、舞台での声の通りが悪い、朗読で安定した声が出ないなどの悩みがあり、西洋式のボイストレーニングを受けたものの、日本語のセリフやナレーションへの適用に違和感があるというのです。また、能の稽古に関心を抱いても、敷居が高いイメージや先生について弟子になることにためらいを覚える人が多いという話も聞きました。つまり、そういった人たちのニーズは、能の芸を磨くというより、実践的に自分の声をよくしたいということなのです。
実は、世阿弥の著した『花伝書』のなかに「声出し口伝」というものがありますが、当時から息を使った謡の発声法を説いているのです。これは日本語の発声の基礎と通じています。そこで、俳優やナレーターを想定して直接的な能の稽古とは異なる、発声を主とした“声の道場”を開くことにしました。意外だったのは、実際に始めてみると声を職業にしている人ばかりではなく、「教室全体に声が通らない」という学校の先生や、歳をとって声が出にくくなったという主婦の方など、普通の人たちが受講者の半数を占めたことです。
——確かに、日常生活で話していることを聞きとってもらえないという悩みを持っている人は、結構いると思います。道場ではどんな指導をしているのですか。
(山村)
基本は腹式呼吸と姿勢です。しかしその前に、まず英語やフランス語などの西洋の言語と日本語の発声の違いを、認識してもらいます。日本語で「一、二、三、四……」と数を数えると、口は縦にはあまり開かずに、顎もほとんど動きません。ところが英語の「ワン、ツー、スリー、フォー……」では口は縦にも大きく開き、顎も活発に動きます。日本語は口の先で子音をつくれるので、あまり息を使わずに話せてしまうのですが、口を縦に開いて顎を動かす英語では、息が鼻に抜けやすく多くの息を使わなければ、話せません。そのため、西洋言語を話す人は深い息での腹式呼吸が自然と身についているのですが、日本人には呼吸の訓練が必要な人が多いのです。
道場での腹式呼吸では、まず構えをつくります。正座でも腰かけてでもいいのですが、膝を少し開いて座り、背筋と首筋を伸ばして、おへそを下前に押し出す感じで「腰が入った」姿勢をつくります。この時、肩の力を抜いて、胸を反らせず、顎を出さないように気をつけます。そして、息を吸うことを意識せずに、吐くことに集中します。しっかりと息を吐くと、息は吸うというより、自然に「入って」きます。下腹に手をあてると、おなかがふくれて、腹式呼吸をしていることが確認できます。
次に、その腹式呼吸の息に声をのせてみます。構えができて、背筋が真っすぐだと、腹式呼吸の力強い息にのって、声帯で発した声が上顎にあたり、体が共鳴板となってしっかりと響くのを感じるはずです。この呼吸と発声を基礎にして、聞く人の心に伝わる自分本来の声(で話すこと)を身につけるのが“声の道場”の目的です。
本は多くの人に、その基本を身につけてもらうために書きました。副題を“日本の声が危ない”としたのは、腹式呼吸が苦手なうえに、成長期にパソコンやゲームに時間を取られて、姿勢のよくない人が増え、ちゃんと伝わる声を持っていない人が多いのを危ぶんでのことです。
(山村)
基本は腹式呼吸と姿勢です。しかしその前に、まず英語やフランス語などの西洋の言語と日本語の発声の違いを、認識してもらいます。日本語で「一、二、三、四……」と数を数えると、口は縦にはあまり開かずに、顎もほとんど動きません。ところが英語の「ワン、ツー、スリー、フォー……」では口は縦にも大きく開き、顎も活発に動きます。日本語は口の先で子音をつくれるので、あまり息を使わずに話せてしまうのですが、口を縦に開いて顎を動かす英語では、息が鼻に抜けやすく多くの息を使わなければ、話せません。そのため、西洋言語を話す人は深い息での腹式呼吸が自然と身についているのですが、日本人には呼吸の訓練が必要な人が多いのです。
道場での腹式呼吸では、まず構えをつくります。正座でも腰かけてでもいいのですが、膝を少し開いて座り、背筋と首筋を伸ばして、おへそを下前に押し出す感じで「腰が入った」姿勢をつくります。この時、肩の力を抜いて、胸を反らせず、顎を出さないように気をつけます。そして、息を吸うことを意識せずに、吐くことに集中します。しっかりと息を吐くと、息は吸うというより、自然に「入って」きます。下腹に手をあてると、おなかがふくれて、腹式呼吸をしていることが確認できます。
次に、その腹式呼吸の息に声をのせてみます。構えができて、背筋が真っすぐだと、腹式呼吸の力強い息にのって、声帯で発した声が上顎にあたり、体が共鳴板となってしっかりと響くのを感じるはずです。この呼吸と発声を基礎にして、聞く人の心に伝わる自分本来の声(で話すこと)を身につけるのが“声の道場”の目的です。
本は多くの人に、その基本を身につけてもらうために書きました。副題を“日本の声が危ない”としたのは、腹式呼吸が苦手なうえに、成長期にパソコンやゲームに時間を取られて、姿勢のよくない人が増え、ちゃんと伝わる声を持っていない人が多いのを危ぶんでのことです。
一時はプロボウラーの道も考えたほどボウリングに熱中した塾生時代
——さて、慶應義塾女子高等学校と大学の思い出を聞かせてください。
(山村)
明治生まれの父は経済学部卒の塾員でした。私は、福岡県浮羽郡(現・うきは市)に6人きょうだいの三女、末っ子として生まれました。旧姓は河北といいます。福澤先生を尊敬する父の強い勧めで、長姉を除くきょうだい5人が義塾で学びました。東京に家があり、そこにきょうだい全員が暮らし学校へ通いました。
女子高等学校では15回生。とにかく元気で、バレーボールに夢中でした。校庭で木登りをしているのを先生に見つかり、「おちゃっぴーだなあ」なんて笑われたこともあります。おちゃっぴーは死語かな(笑)、おてんばで明るい女の子のことです。懐かしいのは、2年生の時、塾高の日吉祭に便乗して合同でやっていた文化祭を、独自のものにしようと実行委員の一人になって” 十月(かんな)祭“を始めたことです。細かいことは忘れましたが、きりたんぽ鍋をふるまったことを覚えています。十月祭創設には、アメリカ帰りの村井実先生が校長に、安川国雄先生が主事になられて、「規則を厳しくするより、生徒を信じる」と、一段と校風が自由になったことも関係していたと思います。
(山村)
明治生まれの父は経済学部卒の塾員でした。私は、福岡県浮羽郡(現・うきは市)に6人きょうだいの三女、末っ子として生まれました。旧姓は河北といいます。福澤先生を尊敬する父の強い勧めで、長姉を除くきょうだい5人が義塾で学びました。東京に家があり、そこにきょうだい全員が暮らし学校へ通いました。
女子高等学校では15回生。とにかく元気で、バレーボールに夢中でした。校庭で木登りをしているのを先生に見つかり、「おちゃっぴーだなあ」なんて笑われたこともあります。おちゃっぴーは死語かな(笑)、おてんばで明るい女の子のことです。懐かしいのは、2年生の時、塾高の日吉祭に便乗して合同でやっていた文化祭を、独自のものにしようと実行委員の一人になって” 十月(かんな)祭“を始めたことです。細かいことは忘れましたが、きりたんぽ鍋をふるまったことを覚えています。十月祭創設には、アメリカ帰りの村井実先生が校長に、安川国雄先生が主事になられて、「規則を厳しくするより、生徒を信じる」と、一段と校風が自由になったことも関係していたと思います。
大学は商学部に進学しました。40年前の女子学生は、もちろん企業や研究分野に進む人もいましたが、「卒業したら実家に帰って結婚」という人もまだ少なくなく、私もその一人でした。ですから、勉強はほどほどで、キャンパスライフの中心は、当時ちょうどブームが始まったボウリング。仲間と三田ボウリングセンター(三田ボウル)※に集まっては楽しんでいました。そんな時、女子プロボウラーとなる長原京子さんが卒業してメンバーが足りないからと、義塾のサークル・ボウリングクラブにスカウトされました。始めると熱中する方で、練習するうちにスコアアベレージは180までになりました。
それからは、教室にはいなくても三田ボウルに行けばいるという生活です(笑)。三田ボウルでアルバイトもしていました。私たち女子チームは大学トップクラスでいろいろな大会でよく優勝していました。ハイスコアは大学の東日本大会での245点です。テレビの大学対抗ボウリング大会に出たり、雑誌の取材を受けたりしたこともありました。一時はプロになろうかと考えたこともありましたが、義塾卒業後は、熱中の対象が能に移ってしまいました。それでも、楽しい思い出です。
※女子高からほど近い三田5丁目に1964年9月オープン。1973年4月閉鎖。
——最後に、塾生にメッセージをお願いします。
(山村)
勉強に真剣に取り組むことも大切ですが、勉強以外でも何かに熱中することが、学生生活を、さらには人生を豊かにしてくれると思います。そして大切なのは、その時その時を真剣に生きること。また、高杉晋作の辞世の句とされる「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」も塾生に伝えたい言葉ですね。
——本日はありがとうございました。
それからは、教室にはいなくても三田ボウルに行けばいるという生活です(笑)。三田ボウルでアルバイトもしていました。私たち女子チームは大学トップクラスでいろいろな大会でよく優勝していました。ハイスコアは大学の東日本大会での245点です。テレビの大学対抗ボウリング大会に出たり、雑誌の取材を受けたりしたこともありました。一時はプロになろうかと考えたこともありましたが、義塾卒業後は、熱中の対象が能に移ってしまいました。それでも、楽しい思い出です。
※女子高からほど近い三田5丁目に1964年9月オープン。1973年4月閉鎖。
——最後に、塾生にメッセージをお願いします。
(山村)
勉強に真剣に取り組むことも大切ですが、勉強以外でも何かに熱中することが、学生生活を、さらには人生を豊かにしてくれると思います。そして大切なのは、その時その時を真剣に生きること。また、高杉晋作の辞世の句とされる「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」も塾生に伝えたい言葉ですね。
——本日はありがとうございました。
























