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[塾員山脈] 木村 周一郎君(株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポン代表取締役)

2012/06/18 (「塾」2012年SPRING(No.274)掲載)
※職名等は掲載時のものです。

幼稚舎から法学部まで義塾で学ぶ 生命保険会社を経て、米仏でパン修業の後パリで人気のフランスパンの店を日本でオープン
木村 周一郎君
【きむら しゅういちろう】1969年東京生まれ。慶應義塾幼稚舎、普通部、高等学校、大学法学部を卒業。1991年千代田生命保険相互会社(当時)に就職。27歳で退職し、米国国立製パン研究所で発酵と製パンを学び、その後パリのエリック・カイザー氏のもとで修業を積む。2000年9月、同氏のパートナーとして株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポンを立ち上げ、代表取締役に就任。

本格的フランスパンの製造販売会社を起業

メゾンカイザー店舗
——「メゾンカイザー」は、自然発酵種(天然酵母)のフランスパンのお店です。1号店のオープンは2001年7月。現在は日本国内店舗10店にデパート内ショップ、シンガポール直営店、韓国と台湾で指導をしているフランチャイズ店を加えると25店を数えます。同社を立ち上げたのが木村周一郎君です。まず「メゾンカイザー」について教えてください。

(木村)
パン酵母にはイースト菌を使うというのが世界の常識なのですが、実はイースト菌の研究が進んだのは、19世紀後半のことです。パンは、そのはるか昔の古代エジプト時代からずっと天然酵母でつくられていました。イースト菌が主流になったのは第二次世界大戦中に麦畑が戦場になり、小麦の収穫量が極端に減ってからのこと。少ない小麦でも大きく膨らむイースト菌が重宝されたのです。その後は、製造効率のよいイースト菌がパン種の主流になりました。
それに異を唱えて、風味も味もよい天然酵母に回帰したパンづくりで、高い評価を得たのがパン職人エリック・カイザーです。カリッとした食感のバゲット、風味豊かなクロワッサンがパリで大人気です。そのカイザーの店で修業をしているときに、彼から日本での出店を持ちかけられたのがきっかけで会社をつくり、メゾンカイザーを展開しています。彼は私より5歳年上で、日本の会社の経営パートナーでもあります。

——木村さんは、明治時代に餡(あん)パンを考案して日本にパン文化を広めた木村屋總本店の創業一族の出身で、お父様は先代の社長です。起業した会社は木村屋總本店の出資ではないのですか?

(木村)
木村屋の資金援助は受けていません。まったく別の会社です。しかし、会社を設立しようとした時はまだ20代。若過ぎて銀行がまったく相手にしてくれず、最初の資金は母方の伯母から借りました。もちろん、そのお金は利子をつけて返しました。
とはいえ、最初から事業がうまくいったわけではありません。当時の日本でフランスパンというと、外皮が比較的柔らかい、いわゆるソフトフランスパンでした。私たちの本格的なフランスのパンをなかなか理解してもらえず、苦労の連続でした。まず笑い話をひとつふたつ。母校の近くの白金高輪に1号店を出すことが決まり、開業前日に店内チェックをしていて、何かヘンだぞと思ったら、なんとレジがありません。あわてて車をとばして合羽橋へ行き、シャッターが下りかかっている店に頼み込んで、なんとかレジ1台を調達しました。そして翌日の開店日、「これ、いくらなの」と聞かれて値段設定をしていなかったことに気づきました。とりあえず、大きいバゲットが200円、小さいクロワッサンは100円で売ることにし、夜も寝ないで原価計算して、ようやく4日目に価格を決めました。本当に笑い話でしょ(笑)。

売れたのは1日14本のみ しかしクリスマスイブに・・・

——それで、パンは売れましたか?

(木村)
まったくだめ。当時はメロンパンとカレーパンの全盛期で、食事用のパンは四角い食パンしか売れません。実際に業界でも「フランスパンの製造販売は、典型的な失敗ビジネスモデル」というのが常識でした。それを覆そうと、天然酵母を武器に始めたのですが、やはり壁は厚く、毎日売れるバゲットは外国人が買ってくれる14本だけでした。それでも、毎日100本焼き続けました。いつでも焼きたてを提供したかったからです。
バゲット
——100本焼いて14本では、つらいですね。どんな手を打ちましたか?

(木村)
とにかく知ってもらうしかありませんから、私は販売促進に専念。しかし広告費用はありません。店の近くの交差点に小さなテーブルを置いて、焼きたてを試食してもらうのです。それでも、14本しか売れない日々が続きました。
しかしある日、劇的なことが起こりました。オープンから5カ月が過ぎたクリスマスイブのことです。朝からお客様がバゲットを求めてたくさん来店し、なんと500本も売れたのです。常連外国人の口コミを聞きつけた人や、試食でおいしいと感じていた人が、イブという特別な日に合わせて来店してくださったのです。英字新聞のジャパンタイムズが「日本で一番のバゲット」と記事にしてくれたことも大きかったようです。その取材時には、「全然売れてないのに記事にして大丈夫ですか?」と言ったら、「おいしいのだから自信を持って」と逆に記者から励まされました。
それ以来、毎日約70本売れるようになり、ようやく最初の壁を乗り越えた気持ちになりました。
その後、売り上げは順調に伸びて2号店を計画。ところが銀行融資がなかなかつかず、塾員の紹介でたどり着いたのが中小企業金融公庫(現 日本政策金融公庫)です。しかし「ベンチャーへの融資はできるが、パン屋はベンチャーじゃないから」と断られます。そこで、「自然発酵種の本格フランスパンは日本ではベンチャーである」という文章を付けて何度か交渉し、ようやく融資が決まり、コレド日本橋に出店しました。
ここではバゲットが毎日200本売れ、さらに日本橋髙島屋と大丸東京店にもショップができ、売り上げも好調です。「よし、いいぞ」と思ったものの、それもつかの間のこと。店内部の人間関係がうまくいかなくなって、店長が辞める事態となり、売り上げは急落。そうなると、融資の返済見通しに暗雲が立ち込めて、経営者の苦しみをひしひしと感じました。知り合いの飲食店経営者から臨時に店長を借りて、私は店長探しに奔走。2カ月後に新店長が決まり、売り上げも徐々に持ち直しました。
これはいい教訓になりました。というのは、規模が大きくなって、自分だけではマネジメントしきれなくなっているのに、なかなか人に任せることができない自分に気づいたからです。これは成長期の企業が陥りやすい問題です。給料で働く社員に自分と同じ意識レベルを押しつけるのは経営者の身勝手に過ぎません。企業組織を円滑に動かすには、社員の心を知り、一緒に考えてよくしていこう、という気持ちの余裕が必要です。

——なるほど、将来の起業を考えている塾生にとって、いいアドバイスです。その後は、着実に会社は大きくなり、現在も伸び続けています。

(木村)
10年以上経ち、気がつくと20店舗を超えています。社員たちが思う存分仕事ができる場をつくりたくて、店が増えたのです。今後は、のれん分けのかたちにしろ、完全独立にしろ、社員の自立のサポートにも力を入れたいと思います。材料の共同仕入れや経理部門の代行など、メゾンカイザーのグループとして、みんなで伸びていければと思っています。

「どんな時でも思考停止するな」と叩き込まれた法学部のゼミ

——幼稚舎から大学法学部まで、ずっと慶應育ちですね。

(木村)
1975年からどっぷり浸かり、思い出もたっぷりあります(笑)。まず幼稚舎では、1000メートル水泳を思い出します。そんなに泳げるだろうかと不安でしたが、四角いプールをみんなで丸く泳ぐうちに渦ができ、身を任せているうちに泳いでしまいました。普通部は学業に厳しくて落第もありえます。ところが勉強する習慣がなかなかつかず、危うくなったことがあります(笑)。そして2年のとき、担任から「進学塾の夏休み講習を受けてみなさい」と言われ、2週間通いました。最初はついていけずに「すごいなあ」と思ったのですが、終わる頃にはかなりいいところにいました。やればできることを実感して勉強の習慣もつき、落第の危機は遠のきました。
塾高では、持参の弁当を早めに食べて、当時日吉キャンパスにあった「梅寿司」で安いねぎとろ丼を、あるいは学食でチキンかつ定食を平らげるのが日課。まさに育ち盛りでした。おしゃれも気になる年頃で、ありきたりのウインドブレーカーの代わりに、部活とは関係なく仲間でスタジャン(スタジアムジャンパー)をつくり、渋谷の喫茶店でお茶するのが楽しみの一つでした。これは、その後流行するチームスタジャンのはしりだと思います。
大学進学にあたっては、宇宙へ行きたいと漠然と思い、最初は理工学部志望でした。しかし先生に「進学しても卒業まで頑張るのは大変だぞ」と却下されてしまいました(笑)。実際に、理工学部には8年ほどかけて卒業した塾高の仲間もいましたから、先生は私の本質を見抜いていたのだと思います。結局は、法学部に進学しました。
弁護士になる気はありませんでしたが、法律の勉強は、のちに会社を立ち上げるときにずいぶん役に立ちました。契約条項の文面の奥にある、法的な意味が理解できるのです。
ゼミは小林節研究室。ガムをかんでいると「出て行け」、遅刻すると「教室に入るな」、さらに問答形式の質問に答えられないと叱責される厳格な指導でしたが、叩き込まれた「どんな時でも思考停止をするな」という教えは、苦境に立ったときも解決策を考え続ける、前向きな気持ちを育ててくれました。
木村 周一郎君
——卒業後は千代田生命に就職しますが、その理由は?

(木村)
バブル期で就職は売り手市場の時代でした。保険制度の概念を日本に早くから紹介したのが福澤先生であり、その門下生である門野幾之進(かどのいくのしん)が中心になってつくった生命保険会社が千代田生命ですから、慶應育ちの私は、ほとんど迷わずに就職しました。その頃は親も好きなことをやりなさい、という雰囲気でしたが、地方支社に出ることになると、父親が「いや、そろそろパン修業を」と言い出し、いろいろあったあげくに27歳で退職してアメリカに勉強に行きました。
アメリカではFDA(食品医薬品局)の機関である国立製パン研究所で発酵学を基礎から学び、その後ニューヨークでパン職人の修業を2年間していったん帰国。それからパリに渡り、エリック・カイザーに出会うわけです。パン職人としては遅いスタートですが、発酵を基礎から学び、ニューヨークとパリで職人仕事を経験したことで、今があると思っています。

——最後に塾生へのメッセージをお願いします。

(木村)
海外でのパン修業も、起業も苦しいことはたくさんありました。でもそれを乗り越えられたのは、義塾で独立自尊の精神を学び、また苦しいときには励ましてくれる信頼できる長年の友人を得ていたからだと思います。特に幼稚舎から義塾で育つと先輩後輩の関係も緊密で、いろいろと教えられたことが今に生きています。学生の間に、一生の友人、先輩、後輩をつくることが、本当に大切なことだと思います。

——本日はありがとうございました。
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