メインカラムの始まり
[塾員山脈] 住谷 栄之資君(株式会社キッズシティージャパン代表取締役社長兼CEO)
2009/08/24 (「塾」2009年SUMMER(No.263)掲載)
※職名等は掲載当時のものです。
チャレンジする気持ちを、心の中に内蔵しよう
チャレンジする気持ちを、心の中に内蔵しよう
【すみたに えいのすけ】1943年和歌山県生まれ。小学校から大阪で育つ。65年商学部卒業後、藤田観光(株)入社。69年に義塾水泳部の先輩に誘われて(株)WDI設立。「ケンタッキーフライドチキン」約30店舗のフランチャイジーに続き、「トニーローマ」「スパゴ」などのライセンスを取得して直接展開、さらに「カプリチョーザ」を開発。60歳で同社を退職後、「キッザニア」のライセンスを取得し、2006年10月に「キッザニア東京」をオープン。
職業意識が揺らいでいる日本社会に一石を投じたい
——「キッザニア」は3歳から15歳までの子どもたちがさまざまな職業を疑似体験できる施設。エデュケーションとエンターテインメントを融合させた“エデュテインメント”として注目され、営業的にも成功しています。メキシコで生まれた施設だそうですが、日本で開業した理由を教えてください。
(住谷)
私は2003年に60歳で外食事業会社の社長を退職しました。さてどうしよう、引退してもいいかなと思っていたのですが、ある時に、知人からメキシコに面白い施設があると聞きました。私はそれまでエンターテインメント系の施設には興味がなかったのですが、そこは子どもに職業体験をさせると聞き、心に引っかかるものがありました。
実際に見学して、“仕事”に取り組んでいる子どもたちの目がいきいきと輝いていることに驚きました。大人たちは「子どもは遊びが好き」と決め付けますが、実は大人がしている仕事にも、すごく興味がありやってみたいと思っているのです。それまでの経験を通じて、仕事への熱意が感じられない若い人たちが増えていることが気になっていたこともあり、職業体験に目を輝かせている子どもたちの姿は、実に新鮮に見えました。
今の日本では、幼児期から受験勉強に追い立てられ、遊びはテレビゲームかゲームセンターという受け身の環境で育つことが多いと思います。勉強も学問も大切だとは思いますが、それだけでは実社会に出ても受け身で消極的な若者になりがちです。そのことは社会問題として指摘されながらも、具体的には何も手が打たれていません。このキッザニアをそんな日本に放り込むことは、社会に一石を投じることになると感じました。
そして2年間の準備期間を経て06年に「キッザニア東京」を開業、社会から大いに注目され、たくさんの子どもたちを集めています。
——子どもの頃の職業体験は、どんな意味があるのでしょうか。
(住谷)
キッザニアでは、消防士やパイロット、ディスクジョッキー、ピザ職人など80種類以上の職業の疑似体験ができます。たとえばハンバーガーショップ体験では、実際に約30分かけてハンバーガーを作ります。まるでお店で売っているのと同じようなハンバーガーが作れた達成感は、子どもたちの大きな自信になります。消防士なら実際に消火活動をするし、ディスクジョッキーはマイクに向かって話をします。この「大人の仕事にチャレンジして、うまくいった」という体験は、子どもの心に「挑戦して成功する喜び」を内蔵させるきっかけになります。
大人の社会では、モチベーションを高めるためとして給料を上げたりしますが、一時的には効果があっても長続きしません。目先のニンジンは食べてしまうと終わり。いつまでも給料を上げ続けることはできません。外的な仕掛けでモチベーションを上げるというのは、私にはナンセンスに思えてなりません。大切なのは、ニンジンはなくても仕事に対して「自ら挑戦して自らを高める喜び」という基本的な思いが、心に内蔵されていることだと思うのです。キッザニアでの職業体験は、子どもたちの心にその思いを内蔵させる体験になりうると考えています。
——3月には兵庫県に「キッザニア甲子園」もオープンしました。
(住谷)
今後、横浜・名古屋・京都・福岡でも開業する計画です。子どもたちの個性はそれぞれで、何種類も体験する積極派もいれば、じっくりと取り組む子もいます。ただしどんな引っ込み思案な子でも、来場して何もせずに帰ったという例を知りません。必ず何かやってみます。そしてそんな子どもほど、挑戦と成功の体験が心に深く刻まれるのではないかと思います。
(住谷)
私は2003年に60歳で外食事業会社の社長を退職しました。さてどうしよう、引退してもいいかなと思っていたのですが、ある時に、知人からメキシコに面白い施設があると聞きました。私はそれまでエンターテインメント系の施設には興味がなかったのですが、そこは子どもに職業体験をさせると聞き、心に引っかかるものがありました。
実際に見学して、“仕事”に取り組んでいる子どもたちの目がいきいきと輝いていることに驚きました。大人たちは「子どもは遊びが好き」と決め付けますが、実は大人がしている仕事にも、すごく興味がありやってみたいと思っているのです。それまでの経験を通じて、仕事への熱意が感じられない若い人たちが増えていることが気になっていたこともあり、職業体験に目を輝かせている子どもたちの姿は、実に新鮮に見えました。
今の日本では、幼児期から受験勉強に追い立てられ、遊びはテレビゲームかゲームセンターという受け身の環境で育つことが多いと思います。勉強も学問も大切だとは思いますが、それだけでは実社会に出ても受け身で消極的な若者になりがちです。そのことは社会問題として指摘されながらも、具体的には何も手が打たれていません。このキッザニアをそんな日本に放り込むことは、社会に一石を投じることになると感じました。
そして2年間の準備期間を経て06年に「キッザニア東京」を開業、社会から大いに注目され、たくさんの子どもたちを集めています。
——子どもの頃の職業体験は、どんな意味があるのでしょうか。
(住谷)
キッザニアでは、消防士やパイロット、ディスクジョッキー、ピザ職人など80種類以上の職業の疑似体験ができます。たとえばハンバーガーショップ体験では、実際に約30分かけてハンバーガーを作ります。まるでお店で売っているのと同じようなハンバーガーが作れた達成感は、子どもたちの大きな自信になります。消防士なら実際に消火活動をするし、ディスクジョッキーはマイクに向かって話をします。この「大人の仕事にチャレンジして、うまくいった」という体験は、子どもの心に「挑戦して成功する喜び」を内蔵させるきっかけになります。
大人の社会では、モチベーションを高めるためとして給料を上げたりしますが、一時的には効果があっても長続きしません。目先のニンジンは食べてしまうと終わり。いつまでも給料を上げ続けることはできません。外的な仕掛けでモチベーションを上げるというのは、私にはナンセンスに思えてなりません。大切なのは、ニンジンはなくても仕事に対して「自ら挑戦して自らを高める喜び」という基本的な思いが、心に内蔵されていることだと思うのです。キッザニアでの職業体験は、子どもたちの心にその思いを内蔵させる体験になりうると考えています。
——3月には兵庫県に「キッザニア甲子園」もオープンしました。
(住谷)
今後、横浜・名古屋・京都・福岡でも開業する計画です。子どもたちの個性はそれぞれで、何種類も体験する積極派もいれば、じっくりと取り組む子もいます。ただしどんな引っ込み思案な子でも、来場して何もせずに帰ったという例を知りません。必ず何かやってみます。そしてそんな子どもほど、挑戦と成功の体験が心に深く刻まれるのではないかと思います。
水泳部に入部し日吉で寮生活
——和歌山生まれで大阪育ち。大学から義塾ですが、進学した理由は何ですか。
(住谷)
理由はただひとつ、水球です(笑)。大阪府立池田高校の水球部でインターハイと国体に2回ずつ出場。3年時には高校生選抜チームに選ばれました。3年の9月に義塾水泳部出の監督から、「慶應へ行け」と言われて急遽受験することになったのです。9月以降は水球三昧の生活から切り替えて、猛勉強して無事に合格できました。
今は建て替えられて留学生もいるそうですが、当時は体育会の学生だけだった日吉の寮に入り4年間ずっと寮生活。掃除、洗濯は自分でやり、けんちん汁やカレーなど食事も交代で作りました。他大学では先輩の洗濯物をさせられるなどと聞きますが、義塾は当時でもそんなことはなく、逆に教科書や参考書、学生服まで先輩からいただいたりして、楽しい寮生活でした。60年代前半の水泳部水球部門は強豪で、リーグ戦でもインカレでも常にベスト4に入っていました。なぜか運悪く、私の在籍中に優勝はできませんでしたが。
ポジションはゴールキーパー。3年生の時には学生日本代表に選ばれてブラジルのポルトアレグレのユニバーシアード大会に出場、4位になりました。ただ、64年の東京オリンピックには2人選ばれるゴールキーパーに最後の選考で漏れ、悔しい思いをしました。しかし就職2年後に、日本代表としてバンコクのアジア大会に出場して優勝しました。入社時に、2年間は水球を続けることを認めてもらっていたのです。
——その会社がホテルやレジャー施設を運営している藤田観光。選んだ理由は何ですか。
(住谷)
先輩から奨められたのがきっかけですが、学生時代から「ホテル&レストラン」という雑誌を愛読していましたから、漠然とですがホテル業界に興味はあったのだと思います。最初の2年間は、箱根小涌園で布団の上げ下げから、ベルボーイ、部屋掃除、厨房などホテルの仕事を一から叩き込まれました。そして3年目には、当時藤田観光が島の南半分を所有していた瀬戸内海の直島開発プロジェクトの担当者に指名されました。
今でこそベネッセコーポレーションのアートサイトで有名ですが、当時は電気も水道、電話もない不便な場所。ここをリゾート地に開発しろということで、赴任させられたのです。インフラ整備に始まり、キャンプ村づくり、ミニチュアゴルフ場建設、そして電車、フェリーを乗り継いで宿泊するパッケージツアーを作り、旅行会社に売り込んだりしました。20代半ばですから、怖いものなし。いいと思ったことにはなんでも挑戦しました。つまり藤田観光では、小涌園でホスピタリティを仕込まれ、ここでは事業開発のイロハを実践的に学んだわけで、これがその後の外食の仕事にも、キッザニアにも生きています。
——そして、69年には義塾の水泳部水球部門の先輩と起業独立するわけですが、まだ26歳でした。
(住谷)
自信満々でした。今の自分を超えるプラスアルファの何かがあるはずだと信じていましたし、何かに挑戦したくてたまりませんでした。先輩とWDIという会社を作り、ボウリング場の企画や宝石の販売など、いろいろやりましたが、なかでも面白かったのは海外のホテルや航空会社の日本での代理店業。本社はアメリカにあり、その日本支社としての仕事で、ロサンゼルスの「ビルトモアホテル」やニュージーランドの「マウントクック航空」などをJTBなど旅行代理店に売り込む仕事です。
海外企業の代理店業務というと英語が堪能でなければと思われがちですが、なんとか通じる程度で十分なのです。相手が求めているのは英語力ではなく仕事力。直接会い、熱意があってきちんと仕事をしていることをわかってもらえれば、任せてもらえます。英語力も年齢も関係ありません。
72年には「ケンタッキーフライドチキン」の日本でのフランチャイジーになり外食産業に進出、その頃は「マクドナルド」や「ミスタードーナツ」が上陸するなど、アメリカンファーストフードがブームでした。かつてはアメリカにおいしいものはないなどと言われたものですが、ファーストフードを知った若い人たちにとっては「アメリカの食べ物は安くておいしい」となったのです。その勢いに乗って、「ケンタッキーフライドチキン」は約30店舗を展開しました。
外食ビジネスの勘所がわかってくると、フランチャイジーではなく直接本国からライセンスを取得しての事業に乗り出しました。「トニーローマ」や「スパゴ」、「ハードロックカフェ」などがそうです。先方も日本に進出したいのですが、大手商社などに声をかけても決定するまで時間がかかりすぎるのがネックだったようです。その点、小回りの利く私たちは決定が早い。人気上昇中で注目されていたカリフォルニアキュイジーヌの「スパゴ」の場合は、先方と会って30分でほぼ話がまとまりました。海外が相手のビジネスには、スピードが本当に大切なのです。
——その経験がキッザニアにも生きているのでしょうね。日本では無名のメキシコの施設となると、決断にはかなりの勇気が必要に感じます。
(住谷)
外食とは畑が違いますが、長い間の経験で、お客様が求めるものに対する嗅覚というか肌感覚というか、そのあたりは鋭くなっていると思います。キッザニアは、若い人の職業観が揺らいでいる今の日本には必要だと感じたのです。
そんな感覚を身に付けることができた原点をたどっていくと、福澤先生の独立自尊の思想に行き着きます。私の先生の著作との出会いは、受験前に少しは義塾のことを知っていなければと思って読んだ『福翁自伝』です。そんな理由で読み始めたのですが、その自由でダイナミックな生き方に感銘を受けました。入学後も、授業や何かで先生のエピソードが語られることが多く、そのひとつひとつに先生の独立自尊の精神があらわれていて、納得するとともに尊敬の念を深めたものです。
私なりの解釈ですが、先生は学問は実社会とリンクして実社会で役立ってこそ意味があるとおっしゃっているのだと思います。言葉だけ弄しても、知識だけ持っていても社会の役に立たない、自分をしっかりと持って前進し、チャレンジすることに意義があると説いているのだと理解しています。実際に義塾を開いて多くの経済人を育て、啓蒙の書を著して社会を啓蒙することで実社会としっかりとリンクしていた先生だからこそ、その考えに説得力を感じました。
——最後に塾生たちへのメッセージをお願いします。
(住谷)
キッザニアで子どもたちが職業体験にチャレンジするように、塾生にも、どんなことにでもチャレンジしてほしいと思います。若い時に失敗してもいくらでもやり直す機会がありますし、失敗から得るものは成功から得るものより大きいともいえます。
失敗といえば、私は大学4年の時に東京オリンピック代表の座をつかめませんでした。私にとっては大きな失敗です。さすがに落ち込んで、初めて母親に泣き言をいったことがありました。その時、母親は明るい声で「いろんなことがあるわね」と言ったのです。この言葉には救われた気がしました。たしかに人生にはいろんなことがあります。オリンピック落選も、その後のアジア大会優勝もいろんなことのひとつ。いろんなことがあるから面白いのです。逃げているとそこには何もありません。皆さんは、どうぞ逃げることなく、うれしいことも辛いことも、いろんなことを受け止められる人になってください。そして、福澤先生の独立自尊の教えを心に秘めて、未来にチャレンジしてください。
(住谷)
理由はただひとつ、水球です(笑)。大阪府立池田高校の水球部でインターハイと国体に2回ずつ出場。3年時には高校生選抜チームに選ばれました。3年の9月に義塾水泳部出の監督から、「慶應へ行け」と言われて急遽受験することになったのです。9月以降は水球三昧の生活から切り替えて、猛勉強して無事に合格できました。
今は建て替えられて留学生もいるそうですが、当時は体育会の学生だけだった日吉の寮に入り4年間ずっと寮生活。掃除、洗濯は自分でやり、けんちん汁やカレーなど食事も交代で作りました。他大学では先輩の洗濯物をさせられるなどと聞きますが、義塾は当時でもそんなことはなく、逆に教科書や参考書、学生服まで先輩からいただいたりして、楽しい寮生活でした。60年代前半の水泳部水球部門は強豪で、リーグ戦でもインカレでも常にベスト4に入っていました。なぜか運悪く、私の在籍中に優勝はできませんでしたが。
ポジションはゴールキーパー。3年生の時には学生日本代表に選ばれてブラジルのポルトアレグレのユニバーシアード大会に出場、4位になりました。ただ、64年の東京オリンピックには2人選ばれるゴールキーパーに最後の選考で漏れ、悔しい思いをしました。しかし就職2年後に、日本代表としてバンコクのアジア大会に出場して優勝しました。入社時に、2年間は水球を続けることを認めてもらっていたのです。
——その会社がホテルやレジャー施設を運営している藤田観光。選んだ理由は何ですか。
(住谷)
先輩から奨められたのがきっかけですが、学生時代から「ホテル&レストラン」という雑誌を愛読していましたから、漠然とですがホテル業界に興味はあったのだと思います。最初の2年間は、箱根小涌園で布団の上げ下げから、ベルボーイ、部屋掃除、厨房などホテルの仕事を一から叩き込まれました。そして3年目には、当時藤田観光が島の南半分を所有していた瀬戸内海の直島開発プロジェクトの担当者に指名されました。
今でこそベネッセコーポレーションのアートサイトで有名ですが、当時は電気も水道、電話もない不便な場所。ここをリゾート地に開発しろということで、赴任させられたのです。インフラ整備に始まり、キャンプ村づくり、ミニチュアゴルフ場建設、そして電車、フェリーを乗り継いで宿泊するパッケージツアーを作り、旅行会社に売り込んだりしました。20代半ばですから、怖いものなし。いいと思ったことにはなんでも挑戦しました。つまり藤田観光では、小涌園でホスピタリティを仕込まれ、ここでは事業開発のイロハを実践的に学んだわけで、これがその後の外食の仕事にも、キッザニアにも生きています。
——そして、69年には義塾の水泳部水球部門の先輩と起業独立するわけですが、まだ26歳でした。
(住谷)
自信満々でした。今の自分を超えるプラスアルファの何かがあるはずだと信じていましたし、何かに挑戦したくてたまりませんでした。先輩とWDIという会社を作り、ボウリング場の企画や宝石の販売など、いろいろやりましたが、なかでも面白かったのは海外のホテルや航空会社の日本での代理店業。本社はアメリカにあり、その日本支社としての仕事で、ロサンゼルスの「ビルトモアホテル」やニュージーランドの「マウントクック航空」などをJTBなど旅行代理店に売り込む仕事です。
海外企業の代理店業務というと英語が堪能でなければと思われがちですが、なんとか通じる程度で十分なのです。相手が求めているのは英語力ではなく仕事力。直接会い、熱意があってきちんと仕事をしていることをわかってもらえれば、任せてもらえます。英語力も年齢も関係ありません。
72年には「ケンタッキーフライドチキン」の日本でのフランチャイジーになり外食産業に進出、その頃は「マクドナルド」や「ミスタードーナツ」が上陸するなど、アメリカンファーストフードがブームでした。かつてはアメリカにおいしいものはないなどと言われたものですが、ファーストフードを知った若い人たちにとっては「アメリカの食べ物は安くておいしい」となったのです。その勢いに乗って、「ケンタッキーフライドチキン」は約30店舗を展開しました。
外食ビジネスの勘所がわかってくると、フランチャイジーではなく直接本国からライセンスを取得しての事業に乗り出しました。「トニーローマ」や「スパゴ」、「ハードロックカフェ」などがそうです。先方も日本に進出したいのですが、大手商社などに声をかけても決定するまで時間がかかりすぎるのがネックだったようです。その点、小回りの利く私たちは決定が早い。人気上昇中で注目されていたカリフォルニアキュイジーヌの「スパゴ」の場合は、先方と会って30分でほぼ話がまとまりました。海外が相手のビジネスには、スピードが本当に大切なのです。
——その経験がキッザニアにも生きているのでしょうね。日本では無名のメキシコの施設となると、決断にはかなりの勇気が必要に感じます。
(住谷)
外食とは畑が違いますが、長い間の経験で、お客様が求めるものに対する嗅覚というか肌感覚というか、そのあたりは鋭くなっていると思います。キッザニアは、若い人の職業観が揺らいでいる今の日本には必要だと感じたのです。
そんな感覚を身に付けることができた原点をたどっていくと、福澤先生の独立自尊の思想に行き着きます。私の先生の著作との出会いは、受験前に少しは義塾のことを知っていなければと思って読んだ『福翁自伝』です。そんな理由で読み始めたのですが、その自由でダイナミックな生き方に感銘を受けました。入学後も、授業や何かで先生のエピソードが語られることが多く、そのひとつひとつに先生の独立自尊の精神があらわれていて、納得するとともに尊敬の念を深めたものです。
私なりの解釈ですが、先生は学問は実社会とリンクして実社会で役立ってこそ意味があるとおっしゃっているのだと思います。言葉だけ弄しても、知識だけ持っていても社会の役に立たない、自分をしっかりと持って前進し、チャレンジすることに意義があると説いているのだと理解しています。実際に義塾を開いて多くの経済人を育て、啓蒙の書を著して社会を啓蒙することで実社会としっかりとリンクしていた先生だからこそ、その考えに説得力を感じました。
——最後に塾生たちへのメッセージをお願いします。
(住谷)
キッザニアで子どもたちが職業体験にチャレンジするように、塾生にも、どんなことにでもチャレンジしてほしいと思います。若い時に失敗してもいくらでもやり直す機会がありますし、失敗から得るものは成功から得るものより大きいともいえます。
失敗といえば、私は大学4年の時に東京オリンピック代表の座をつかめませんでした。私にとっては大きな失敗です。さすがに落ち込んで、初めて母親に泣き言をいったことがありました。その時、母親は明るい声で「いろんなことがあるわね」と言ったのです。この言葉には救われた気がしました。たしかに人生にはいろんなことがあります。オリンピック落選も、その後のアジア大会優勝もいろんなことのひとつ。いろんなことがあるから面白いのです。逃げているとそこには何もありません。皆さんは、どうぞ逃げることなく、うれしいことも辛いことも、いろんなことを受け止められる人になってください。そして、福澤先生の独立自尊の教えを心に秘めて、未来にチャレンジしてください。
























