メインカラムの始まり
[塾員山脈] 石坂浩二君(俳優)
2008/12/02 (「塾」2008年AUTUMN(No.260)掲載)
※職名等は掲載当時のものです。
演劇漬けの塾生時代に学んだことは、なにごとにも疑問を持ち、自ら確かめる気持ちを持ち続けること
演劇漬けの塾生時代に学んだことは、なにごとにも疑問を持ち、自ら確かめる気持ちを持ち続けること
【いしざか こうじ】(本名:武藤兵吉)1966年法学部卒業。1962年、在学中にテレビドラマ「七人の刑事」でデビュー。テレビでは、1964年の連続ドラマ「平四郎危機一発」で、本業は花屋のスマートな探偵役を演じて以来、「天と地と」「ありがとう」「渡る世間は鬼ばかり」「水戸黄門」などのドラマで人気を博し、現在はテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」で活躍中。映画でも「犬神家の一族」などのシリーズで金田一耕助を演じ、「細雪」「ビルマの竪琴」など多数出演。8月公開の「ラストゲーム 最後の早慶戦」では、小泉信三元塾長の役を思いを込めて演じた。
小泉塾長は別格の存在
(C)2008「ラストゲーム最後の早慶戦」製作委員会
——映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」で当時の小泉信三塾長を演じられました。きっかけはどのようなことだったのですか?
(石坂)
実は数年前にテレビでドキュメンタリー風の「最後の早慶戦」が放映されたことがあります。ところが、これがかなり早稲田寄りの作り方がされていて、ちょっと不満だったのです。そんな思いでいたところに、今回の映画の話がありました。慶應と早稲田のどちらにも偏らないものを作るという方針のもとで、「小泉塾長の役をやってくれませんか」ということでした。それなら、と「喜んでやらせてもらいます」と即答しました。
——即答したということは、小泉塾長に対して何か強い思いがあったのでしょうか?
(石坂)
もちろんです。慶應に関わる人たちは数多くいらっしゃいますが、なかでも僕にとって小泉塾長は別格の存在なのです。福澤先生の次に位置する方といってもいいと思います。ですから、塾員の俳優ならともかく、ゆかりのない方には演じてほしくありませんでした。キャスティングは両校の卒業生をとくに意識していませんでしたから、慶應卒業者以外が演じる可能性もあったので、そんなことになるくらいなら、ぜひ僕がという思いが即答させたのです。恐れ多い気もしましたが、小泉塾長を演じられたことは、幸せなことです。
——祖父であり、貴族院議員や横浜市長を歴任された平沼亮三氏は小泉塾長と懇意だったそうですね。
(石坂)
祖父は市民スポーツ振興の功績で文化勲章をもらっています。とくに野球が大好きで、慶應の学生時代はサードを守る強打者でした。後に東京六大学野球連盟の会長も務めています。祖父のほうが小泉塾長より9歳年長なのですが、祖父は野球、塾長はテニスと種目は異なるものの、お互いにアマチュアスポーツに情熱を持っていて、たいへん仲がよかったようです。子供の頃には祖父から「体を動かせ」とスポーツを奨励され、塾長を例に挙げて「小泉君も体を動かしたからこそ、福澤先生の智徳を身に付けることができたのだ」と聞かされたこともあります。祖父は私が高校生の時に亡くなってしまいましたが、祖父と小泉塾長の関係を考えると、もしかすると幼い頃に小泉塾長にお会いしたことがあったかもしれません。ただ、残念なことに記憶は定かではありません。
——会っていたかもしれないと思うと、親近感は増しますね。ところで、演じるにあたって、具体的にどんなイメージを持っていたのでしょうか?
(石坂)
祖父との関係で抱いていた印象だけでなく、普通部や高等学校時代に先生方の話のなかに小泉塾長のことがよく出てきたことから、先生方からも、尊敬されていることはわかっていました。また85年公開の映画「ビルマの竪琴」の試写に、当時皇太子殿下同妃殿下だった天皇皇后両陛下をお迎えし、なぜかご説明役に僕が指名されたことがありました。その時、かつての教育掛だった小泉塾長のことも話題になり、殿下が「小泉先生にはかわいがっていただいた」と懐かしそうにおっしゃったことも覚えています。演じることになって、そんな記憶を甦らせながら、優しく温かな心のジェントルマンというイメージを大切にしました。そして何より慶應への愛情を表現できればとも思いました。次女の小泉妙さんが小泉塾長の思い出として、「慶應義塾大学百二十年の航跡」という冊子に、「慶子さんは応接室で…」と何かの記事に書かれていると、慶と応の字に反応して乗り出すように読んでいたという笑い話のようなエピソードを記されていたのですが、小泉塾長はそれほど慶應を愛していらしたのです。
——脚本も早くから読まれたそうですが、気になるところはありましたか?
(石坂)
もっとも大きな問題は、戦死されていたご子息の信吉さんの匂いを出すかどうかでした。僕は出さないほうがいいと考えました。信吉さんの思い出を綴られた『海軍主計大尉小泉信吉』というベストセラーになった本があるのですが、出版されたのは塾長が亡くなられた後です。かつてその本を読んだときに、親子の愛情のことは世間に明らかにするようなことではない、という塾長の慎み深さを感じとっていました。ですから、神山征二郎監督が「塾長の机に信吉さんの写真を置きましょうか」と言われたときに、「それはやめましょう」と反対し、写真は見送られました。公の場である塾長室に家族の写真を飾ることなど、決してなさらない方だったと思います。
(石坂)
実は数年前にテレビでドキュメンタリー風の「最後の早慶戦」が放映されたことがあります。ところが、これがかなり早稲田寄りの作り方がされていて、ちょっと不満だったのです。そんな思いでいたところに、今回の映画の話がありました。慶應と早稲田のどちらにも偏らないものを作るという方針のもとで、「小泉塾長の役をやってくれませんか」ということでした。それなら、と「喜んでやらせてもらいます」と即答しました。
——即答したということは、小泉塾長に対して何か強い思いがあったのでしょうか?
(石坂)
もちろんです。慶應に関わる人たちは数多くいらっしゃいますが、なかでも僕にとって小泉塾長は別格の存在なのです。福澤先生の次に位置する方といってもいいと思います。ですから、塾員の俳優ならともかく、ゆかりのない方には演じてほしくありませんでした。キャスティングは両校の卒業生をとくに意識していませんでしたから、慶應卒業者以外が演じる可能性もあったので、そんなことになるくらいなら、ぜひ僕がという思いが即答させたのです。恐れ多い気もしましたが、小泉塾長を演じられたことは、幸せなことです。
——祖父であり、貴族院議員や横浜市長を歴任された平沼亮三氏は小泉塾長と懇意だったそうですね。
(石坂)
祖父は市民スポーツ振興の功績で文化勲章をもらっています。とくに野球が大好きで、慶應の学生時代はサードを守る強打者でした。後に東京六大学野球連盟の会長も務めています。祖父のほうが小泉塾長より9歳年長なのですが、祖父は野球、塾長はテニスと種目は異なるものの、お互いにアマチュアスポーツに情熱を持っていて、たいへん仲がよかったようです。子供の頃には祖父から「体を動かせ」とスポーツを奨励され、塾長を例に挙げて「小泉君も体を動かしたからこそ、福澤先生の智徳を身に付けることができたのだ」と聞かされたこともあります。祖父は私が高校生の時に亡くなってしまいましたが、祖父と小泉塾長の関係を考えると、もしかすると幼い頃に小泉塾長にお会いしたことがあったかもしれません。ただ、残念なことに記憶は定かではありません。
——会っていたかもしれないと思うと、親近感は増しますね。ところで、演じるにあたって、具体的にどんなイメージを持っていたのでしょうか?
(石坂)
祖父との関係で抱いていた印象だけでなく、普通部や高等学校時代に先生方の話のなかに小泉塾長のことがよく出てきたことから、先生方からも、尊敬されていることはわかっていました。また85年公開の映画「ビルマの竪琴」の試写に、当時皇太子殿下同妃殿下だった天皇皇后両陛下をお迎えし、なぜかご説明役に僕が指名されたことがありました。その時、かつての教育掛だった小泉塾長のことも話題になり、殿下が「小泉先生にはかわいがっていただいた」と懐かしそうにおっしゃったことも覚えています。演じることになって、そんな記憶を甦らせながら、優しく温かな心のジェントルマンというイメージを大切にしました。そして何より慶應への愛情を表現できればとも思いました。次女の小泉妙さんが小泉塾長の思い出として、「慶應義塾大学百二十年の航跡」という冊子に、「慶子さんは応接室で…」と何かの記事に書かれていると、慶と応の字に反応して乗り出すように読んでいたという笑い話のようなエピソードを記されていたのですが、小泉塾長はそれほど慶應を愛していらしたのです。
——脚本も早くから読まれたそうですが、気になるところはありましたか?
(石坂)
もっとも大きな問題は、戦死されていたご子息の信吉さんの匂いを出すかどうかでした。僕は出さないほうがいいと考えました。信吉さんの思い出を綴られた『海軍主計大尉小泉信吉』というベストセラーになった本があるのですが、出版されたのは塾長が亡くなられた後です。かつてその本を読んだときに、親子の愛情のことは世間に明らかにするようなことではない、という塾長の慎み深さを感じとっていました。ですから、神山征二郎監督が「塾長の机に信吉さんの写真を置きましょうか」と言われたときに、「それはやめましょう」と反対し、写真は見送られました。公の場である塾長室に家族の写真を飾ることなど、決してなさらない方だったと思います。
普通部1年の時に非公認演劇部を結成
——ところで普通部、高校、大学と慶應育ちですが、どんな学生時代でしたか?
(石坂)
ひとことで言って芝居漬けの日々でした。普通部に入ってすぐ、1年生なのに演劇部を作ったほどです。とは言っても顧問の先生もいないし、公認されてもなくて、なんだか秘密結社のような部でした(笑)。男子ばかりなので上演できる芝居もなく、しかたがないのでみんなでいろんな芝居を見ては、勝手に合評会を開いていました。そんなある日、ある3年生がやってきて、「僕が高校に上がったら演劇部に入るから、呼んでやるよ」と言ってくれました。その言葉は実現され、普通部の生徒として、高校の演劇部の大道具などを手伝いながら稽古を見学していました。高校生になってからは、ますます芝居中心の生活でした。学校の演劇部の部長をしながら、学外でもふたつの劇団に所属していたのです。僕のデビューは、大学2年のときのテレビドラマ「七人の刑事」ということになっていますが、実はその4年前の高校2年から通行人などのエキストラでテレビに出ていたのです。当時の部室は野球部とアメリカンフットボール部に挟まれていました。演劇部というと軟弱に思われがちですが、僕たちは至って硬派。ランニングなどの肉体トレーニングを毎日やり、体育会系の部にも一目置かれていました。その頃に影響を受けた先輩は、市川猿之助さんです。3年上で本名は喜熨斗(きのし)政彦さん。部室には喜熨斗さん寄付のソファとコーヒーメーカーがあり、大学生なのに毎日部室に顔を見せては、コーヒーを飲みながらいろいろと教えてくれるのです。演劇部での初舞台は、福田恆存作の「幽霊屋敷」。千代田区公会堂での公演で、僕は舞台奥のマントルピースから出てくる幽霊の役なのですが、舞台が広くて、演技をしながら中央に移動するのにとっても苦労した覚えがありました。しかし、プロになって見るとすごく小さな劇場でした。やっぱり緊張していたのでしょうね。
——大学は法学部、卒業後は劇団四季に入団しましたが、法学部に進まれた理由は?
(石坂)
法学部を選んだのは、当時ペリー・メイスンものなど、法廷劇が盛んだったからです(笑)。芝居で生きていく覚悟はできていましたから、学部にはあまりこだわりませんでした。役者よりも脚本を書く本書き志望で、劇団四季での所属も演出部でした。当時の四季で台本と作詞を手がけた子供たちのためのミュージカル「王子とこじき」は、今も上演されています。現在は休止していますが、10年ほど前までは自分で劇団「急旋回」を主宰して、脚本と演出を手がけていました。やっぱり芝居の脚本も演出も好きなのです。
——ベテランの俳優のなかには、映画を監督する方が多いのですが、石坂さんはいかがですか?
(石坂)
僕にとっては、芝居の舞台が経験も知識もあり、最も自分を表現しやすい場所なのです。映画の監督はまた別の仕事ですから、僕はやる気はありません。また俳優が監督をしても、なかなかいい映画は撮れません。出演はしますが、映画を撮るのは映画監督に任せたほうがいいと感じています。
(石坂)
ひとことで言って芝居漬けの日々でした。普通部に入ってすぐ、1年生なのに演劇部を作ったほどです。とは言っても顧問の先生もいないし、公認されてもなくて、なんだか秘密結社のような部でした(笑)。男子ばかりなので上演できる芝居もなく、しかたがないのでみんなでいろんな芝居を見ては、勝手に合評会を開いていました。そんなある日、ある3年生がやってきて、「僕が高校に上がったら演劇部に入るから、呼んでやるよ」と言ってくれました。その言葉は実現され、普通部の生徒として、高校の演劇部の大道具などを手伝いながら稽古を見学していました。高校生になってからは、ますます芝居中心の生活でした。学校の演劇部の部長をしながら、学外でもふたつの劇団に所属していたのです。僕のデビューは、大学2年のときのテレビドラマ「七人の刑事」ということになっていますが、実はその4年前の高校2年から通行人などのエキストラでテレビに出ていたのです。当時の部室は野球部とアメリカンフットボール部に挟まれていました。演劇部というと軟弱に思われがちですが、僕たちは至って硬派。ランニングなどの肉体トレーニングを毎日やり、体育会系の部にも一目置かれていました。その頃に影響を受けた先輩は、市川猿之助さんです。3年上で本名は喜熨斗(きのし)政彦さん。部室には喜熨斗さん寄付のソファとコーヒーメーカーがあり、大学生なのに毎日部室に顔を見せては、コーヒーを飲みながらいろいろと教えてくれるのです。演劇部での初舞台は、福田恆存作の「幽霊屋敷」。千代田区公会堂での公演で、僕は舞台奥のマントルピースから出てくる幽霊の役なのですが、舞台が広くて、演技をしながら中央に移動するのにとっても苦労した覚えがありました。しかし、プロになって見るとすごく小さな劇場でした。やっぱり緊張していたのでしょうね。
——大学は法学部、卒業後は劇団四季に入団しましたが、法学部に進まれた理由は?
(石坂)
法学部を選んだのは、当時ペリー・メイスンものなど、法廷劇が盛んだったからです(笑)。芝居で生きていく覚悟はできていましたから、学部にはあまりこだわりませんでした。役者よりも脚本を書く本書き志望で、劇団四季での所属も演出部でした。当時の四季で台本と作詞を手がけた子供たちのためのミュージカル「王子とこじき」は、今も上演されています。現在は休止していますが、10年ほど前までは自分で劇団「急旋回」を主宰して、脚本と演出を手がけていました。やっぱり芝居の脚本も演出も好きなのです。
——ベテランの俳優のなかには、映画を監督する方が多いのですが、石坂さんはいかがですか?
(石坂)
僕にとっては、芝居の舞台が経験も知識もあり、最も自分を表現しやすい場所なのです。映画の監督はまた別の仕事ですから、僕はやる気はありません。また俳優が監督をしても、なかなかいい映画は撮れません。出演はしますが、映画を撮るのは映画監督に任せたほうがいいと感じています。
高校時代に創立100年行事の裏方をやりました
テレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」にて
——普通部からの塾員として、慶應義塾で得たものはなんだったでしょうか?
(石坂)
先ほどの「ラストゲーム最後の早慶戦」で、三田キャンパス図書館旧館の記念室を塾長室に見立てて撮影したシーンがありました。早稲田の決断が遅れ、試合の日程が決まらないために、学徒出陣を控えた選手たちをいったん郷里に帰すかどうかを塾生たちと話し合う場面です。このとき塾生たちが自分の意見を述べ、小泉塾長はその意見を入れて、「君たちの言う通りだね」と学生たちを帰すことにするのです。この塾生が自由に意見を言うことができる空気こそ、慶應の伝統である柔軟な精神なのです。自らを振り返ってみると、物怖じしない、人見知りしない、その場にのまれない僕の性格は、この慶應の教員と学生との間に壁がない、自由な空気の中で培われたものだと思います。実は芸能界で仕事を始めた頃、周囲の人たちは、演出家でも脚本家でも、誰に対しても平気で「先生、先生」と連発するのに驚きました。僕にはできませんでした。人を安易に先生と呼ぶなんて、なんだか失礼な気さえしたものです。市川崑監督のことも先生と呼べずに、監督と呼んでいました。市川監督自身、先生と呼ばれるのを嫌っていましたが、それこそきちんとした人間の態度なのだと思います。塾員、塾生は皆同じ思いでしょうが、義塾では先生と呼べるのは福澤先生だけだと教わりましたし、実際に僕の塾生時代は、休講した時の張り紙も、「○○君、休講」と教授でも君付けでしたしね。
——若い塾生に対して、何かメッセージはありませんか?
(石坂)
普通部で行われている「目路はるか教室」でこんな話をしたことがあります。「たとえ先生が言ったことでも、本に書かれていることでも、まず『本当かな』と疑って、自分で確かめてみる気持ちを絶対に忘れちゃいけないよ」と。実はこれ、僕自身が普通部、高校時代に多くの先生からいつも言われていたことです。言われるままを受け入れるのではなく、なにごとにも疑問を持ち、自ら確かめる気持ちをずっと持ち続けることが、一生学び続けることにつながっているのだし、それはまた、福澤先生がおっしゃっている実学にもつながっているのです。
——今年は慶應義塾創立150年です。既に記念講演会「学問のすゝめ21」の岡山会場でもご講演なさっていますが、区切りの年に何か感じることはありませんか?
(石坂)
実は僕の高校の頃が、ちょうど創立100年でした。各界の方から祝辞をいただく会の手伝いに駆り出されたのですが、進行が遅れて来賓の方々から、ひどくしかられた苦い記憶があります(笑)。それはともあれ、100年と150年の2回も関わらせていただいて、それだけで幸せなことです。200年に参加することはまず無理でしょうからね。
(石坂)
先ほどの「ラストゲーム最後の早慶戦」で、三田キャンパス図書館旧館の記念室を塾長室に見立てて撮影したシーンがありました。早稲田の決断が遅れ、試合の日程が決まらないために、学徒出陣を控えた選手たちをいったん郷里に帰すかどうかを塾生たちと話し合う場面です。このとき塾生たちが自分の意見を述べ、小泉塾長はその意見を入れて、「君たちの言う通りだね」と学生たちを帰すことにするのです。この塾生が自由に意見を言うことができる空気こそ、慶應の伝統である柔軟な精神なのです。自らを振り返ってみると、物怖じしない、人見知りしない、その場にのまれない僕の性格は、この慶應の教員と学生との間に壁がない、自由な空気の中で培われたものだと思います。実は芸能界で仕事を始めた頃、周囲の人たちは、演出家でも脚本家でも、誰に対しても平気で「先生、先生」と連発するのに驚きました。僕にはできませんでした。人を安易に先生と呼ぶなんて、なんだか失礼な気さえしたものです。市川崑監督のことも先生と呼べずに、監督と呼んでいました。市川監督自身、先生と呼ばれるのを嫌っていましたが、それこそきちんとした人間の態度なのだと思います。塾員、塾生は皆同じ思いでしょうが、義塾では先生と呼べるのは福澤先生だけだと教わりましたし、実際に僕の塾生時代は、休講した時の張り紙も、「○○君、休講」と教授でも君付けでしたしね。
——若い塾生に対して、何かメッセージはありませんか?
(石坂)
普通部で行われている「目路はるか教室」でこんな話をしたことがあります。「たとえ先生が言ったことでも、本に書かれていることでも、まず『本当かな』と疑って、自分で確かめてみる気持ちを絶対に忘れちゃいけないよ」と。実はこれ、僕自身が普通部、高校時代に多くの先生からいつも言われていたことです。言われるままを受け入れるのではなく、なにごとにも疑問を持ち、自ら確かめる気持ちをずっと持ち続けることが、一生学び続けることにつながっているのだし、それはまた、福澤先生がおっしゃっている実学にもつながっているのです。
——今年は慶應義塾創立150年です。既に記念講演会「学問のすゝめ21」の岡山会場でもご講演なさっていますが、区切りの年に何か感じることはありませんか?
(石坂)
実は僕の高校の頃が、ちょうど創立100年でした。各界の方から祝辞をいただく会の手伝いに駆り出されたのですが、進行が遅れて来賓の方々から、ひどくしかられた苦い記憶があります(笑)。それはともあれ、100年と150年の2回も関わらせていただいて、それだけで幸せなことです。200年に参加することはまず無理でしょうからね。
























