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2010年01月10日 第175回福澤先生誕生記念会年頭の挨拶 「持続可能性への貢献」

慶應義塾長  清家 篤
 〔1〕福澤先生の恩恵
 皆様あけましておめでとうございます。今年も,1月10日の福澤先生のお誕生日をお祝いできることを有り難く思っております。きょうは福澤家を代表して福澤信雄様にご出席いただいておりますが,福澤先生のお誕生日,まことにおめでとうございます。
 とくにきょうは福澤先生生誕175年にあたる記念すべきお誕生日です。福澤先生は今から175年前の1835年1月10日,旧暦でいえば天保5年12月12日に,大阪でお生まれになりました。父上が中津藩大阪蔵屋敷にお勤めだったからです。天保年間は,十一代将軍家斉の治世の末期にあたり,福澤先生の誕生と前後して,歴史的出来事で言えば天保の大飢饉が始まり,大塩平八郎の乱などが起きています。
 この後日本は文字どおり大激動の時代を迎えることになります。先生がちょうど成人される頃の嘉永6年,1853年には浦賀にペリーが来航し,それを機に鎖国を解くべきかどうかで国論は割れ,やがて明治維新へとつながった歴史は皆様ご存知のとおりです。先生はそうした激動の幕末期に生まれ,大阪にあった緒方洪庵の適塾に学ばれ,1858年,江戸の中津藩中屋敷内で蘭学教授を始められました。これが慶應義塾の起源とされています。
 このように福澤先生は175年前に生まれ,110年ほど前に亡くなられた方ですから,ここにいる誰もその謦咳に接した方はいないわけですが,皆様方ひとりひとりの中に福澤先生は生きておられます。義塾社中の者だけでなく,今の時代に生きる学者,経営者,あるいは政治家などが,しばしば福澤を引用し,あるいは福澤の論に依拠して自らの論を立てるということが見られます。その意味では,先ほど幼稚舎生の皆さんが歌ってくださったように,今でも「福澤諭吉ここに在り」という感じで,先生のお考えは現代にも生きているということです。
 言うまでもなくこれは,福澤先生が,『文明論之概略』や『学問のすゝめ』といった素晴らしい著作を残され,その中に時間と空間を越えた普遍性を持つ,しっかりとしたお考えを示してくださったからに他なりません。そうした普遍性のある考えを示してくださった先生が慶應義塾の創立者であるということは,慶應義塾にとって本当に有り難いことです。
 時空を越えた普遍性を持つ福澤先生のお考えは,今日でもわれわれ慶應義塾の指針となっています。お誕生日に際して,あらためて福澤先生の恩に感謝したいと思います。そして学問と知性をなによりも重んじた福澤先生に立ち返り,教育,研究,そして医療の質の向上につとめなければならないと考えています。

〔2〕持続可能性の問題
 問題は,そうした教育と研究,あるいは医療の質の維持・向上によって達成される究極の目的は何かということです。それを一般的に言えば,良い社会を作るということになるでしょう。ことに研究や教育という,長期的に成果の出る事業を担う大学にとって,とりわけ重要なのは,現在の社会への貢献はもとより,より良い将来の社会を作ることへの貢献であります。「未来への先導」というのは,そのような良い未来を構築するために貢献しようということであるわけです。
 もちろん良い未来を作るための課題といっても多岐にわたります。しかし今日そこには一つの共通のことばで括れるテーマがあるように思われます。それは様々な側面における,「持続可能性」,にかかわる課題です。
 たとえばわれわれの住む地球という天体の持続可能性です。具体的には,温暖化等の環境問題や,天然資源の枯渇などの問題です。人間の生物の種としての持続可能性も重要課題となっています。人類を脅かす新たな疾病にどう立ち向かうか,あるいは日本のような先進国では,少子化によって人口そのものの持続可能性が問われています。
 さらに人間の作った社会構造の持続可能性の問題もあります。安全保障問題,国際金融秩序・貿易秩序などの問題は,国際社会の持続可能性を大きく左右します。先進国と発展途上国との間の格差が,国際紛争などを誘発し国際平和の持続可能性を低めている問題などもあります。また一国の持続可能性にかかわる問題も深刻化しています。社会保障制度の持続可能性,財政の持続可能性は緊急の課題でもあります。あるいはその前提としての経済成長の持続可能性なども問われています。
 これら様々な局面での持続可能性の低下は,われわれ人類社会の未来の存立そのものを危うくするものです。より良い未来を求める大前提として,地球,人類,国際社会,そして日本社会が持続しうるためにはどうしたらよいか。そうした問題に対処しうる人材の育成,あるいはその問題の解決に寄与するような研究の推進という面で,大学の果たすべき役割は大きいわけです。われわれの目的もここにあります。

〔3〕人材を育てる
 そこで今,どのような人材を育てることが求められるのでしょうか。もちろん様々な能力が求められますが,もっとも重要なことは,「自分の頭で考えることのできる人材」ということだと思います。これはこれまでも重要でしたが,とくに持続可能性の問われるような時代にはますます重要になってきます。
 というのは,持続可能性の問題が問われているのは,あらゆる面で従来の構造が変化しているからです。われわれは今,気候にしろ,人口にしろ,世界経済にしろ,不連続的な構造変化に直面しているわけです。そうした大きな変化の時代には,これまでの延長線上でものを考えたり,問題を解決したりすることは難しくなってきます。新しい状況を自ら理解し,その理解に基づいて問題を解決していかなければなりません。
 そして先ほども申しましたが,福澤先生ご自身が,幕末の動乱期を生きられた方です。慶應はそうした社会の大変化に直面した方によって作られたわけです。
 そうした激動の時代に生きた同世代人を福澤先生は「恰も一身にして二生を経(ふ)るが如く」(『文明論之概略』)と表現しています。まるで一人の人間が二つの人生を生きたようなものだ,というわけです。そしてそこで頼りにされたのが,「実学」でした。
 実学とはもちろん役に立つ学問という意味もあります。しかし福澤先生が強調されたのは,実証科学という意味の「実学」でした。実際,『学問のすゝめ』では,実学の例に窮理学(現在の物理学と化学の一部),地理学,歴史学,経済学などをあげており,また『慶應義塾紀事』では実学に「サイヤンス」とルビをふっておられます。ここでいう実学の多くは,これも先ほど幼稚舎生の歌ってくださった「洋学」です。
 つまり福澤先生にとって実学とは科学であり,それによって日本の近代化を急ぎ,国の独立を図ろうとされたわけです。またその実学に依拠して自ら考えることの重要性を説かれたわけです。実証的な科学によって,近代国家としての日本の,まさに持続可能性を高めようとされたと言えましょう。
 では実学の精神に則って,自分の頭で考えるということは具体的にはどういうことでしょうか。それは,大きく分けると4つの要素からなると思います。先ず第1に,考えるべき問題を見つけることです。第2に,問題が見つかったならば,その問題はなぜ起きているのかという,因果に関する仮説を作ることです。
 そのうえで,第3にその仮説が正しいかどうかを検証することが必要となります。これは誰もが納得するような客観的,実証的なやり方で検証しなければなりません。そしてその検証によって仮説が正しいと分かったならば,第4に,それに基づいて問題を解決するということになります。
 つまり,問題発見,仮説構築,検証,問題解決というプロセスが,自分の頭で考えるということになります。これは科学的な研究においても,また実務的な問題を解決する場合においても基本的には同様です。まだ誰も答えを見つけていない問題に答えを見つけるのはこうしたやり方しかありません。そして新しい付加価値を生み出すにも,このようにして,自分の頭で考えていくしかないわけです。
 ところでこのように,実証的な学問を学ぶことの意義として大切なのは,事物の真の姿は学問を通じてはじめて分かるということです。福澤先生もよく例に出された天文がよい例でしょう。われわれが日常的に見ている空では,太陽が昇り沈みし,夜になれば星が季節ごとに天空を動く,まさに地球が静止し,太陽や星が動く天動説が,実感にぴったりです。しかし天空の真の姿はそうではなく,地球こそが自転し,太陽の周りを公転する,地動説によって理解されることを,われわれはコペルニクス以来の天文学によって知っているわけです。
 つまり個人的な体験や,日常的な実感を超えてものごとを理解できるというところに,人間の知性の素晴らしさがあるわけです。このことの大切さを,福澤先生は『文明論之概略』などに示された実学の精神で説かれたのだと思います。
 また国家や社会の持続可能性には,その構成員による適切な選択が不可欠であります。右か左かの大きな選択を迫られたとき,希望的観測や精神論に走らず,冷静で客観的な分析に基づいて少しでも良い方を選択できる,そういう知的にタフな社会人を育成することも極めて重要です。
 そのためには,教育の面で, 3つのことを充実する必要があると考えています。一つは,教養教育の充実です。幅広い学問を学ぶことによって,自分の考えるべき問題を発見する視野も広がります。また幅広い学問を学ぶことを通じて,先人が自分の頭で考えたプロセスを追体験できます。また,将来文科系の専門に進む学生には自然科学の教養,理科系の専門に進む学生には社会科学,人文科学の教養を身に付けてもらうことが,後で述べますように,問題への学際的な取り組みが重要になる変化の時代にはとりわけ大切です。
 その上で専門分野の研究教育をしっかりと行うことが重要です。とくに卒業論文,卒業研究の完成には,問題の発見,仮説の構築,仮説の検証,結論の導出という,自分の頭で考えることの要素をすべて含んでいます。これほど理想的な訓練機会はありません。これを研究会,研究室での少人数指導によってしっかり行うことが重要と考えています。
 さらに,自分の頭で考える能力の涵養には課外活動の果たす役割も小さくありません。たとえば運動部の学生が,少しでも技が上達するにはどうしたらよいか,そして対外試合に勝つためにどんな戦術を採用すればよいかと自ら仮説を作り,それを練習などで検証した上で,試合に臨む。そうしたプロセスはまさに自分の頭で考える作業に他なりません。

〔4〕研究を進める
 われわれの社会の持続可能性を高めるための,研究面での貢献余地ももちろん大きいものがあります。ただしそれは,福澤先生の時代とは異なり,すでに確立している学問の移入ではありません。先進国の先頭を走っている日本のような社会の大学に求められるものは,既存の学問研究の紹介や応用ではなく,世界に新たな叡智をもたらすようなオリジナルな研究です。まさに,まだ誰も回答を見出していないような問題に取り組み,理論仮説を作り,それを検証するという作業をしっかりと行っていくということです。
 その意味では,研究をさらに深めることがまず求められています。学会での国際的評価に耐えうる斬新で専門性の高い研究を進めなければなりません。さらに独創性のある研究ということで言えば,学会で評価されるというだけでなく,学会をリードするような成果が求められるわけです。
 同時に,多くの持続可能性問題は,複数の学問分野に跨る研究の協力,連携を必要としています。たとえば高齢化の進む中で経済社会の持続可能性を高めるためには,高齢者がより健康になり,その仕事能力が十分に発揮でき,また身体能力が低下しても活動できる技術が発達し,そして高齢者と他世代が互いに支えあえる地域社会が構築される,といったことが必要です。それらを実現するためには,医学,工学,経済学,社会学など,理系,文系の分野で深められた研究が,互いに協力し合い,また相互に跨る学際的な研究を進めることが不可欠です。その意味ではそうした多くの学問分野をそろえた総合大学であり,なおかつ同じ社中として分野間の垣根が低い慶應義塾は,大きな強みを持っています。
 こうした研究の質を一層向上させるためには,研究資源を確保しなければなりません。言うまでもなく何よりも大切なのは研究者という人的資源です。世界の先端レベル,高い評価を得ている研究者を積極的に招聘することも大切です。しかしそれ以上に,慶應義塾が社会,学会を先導しようとする気概を持つならば,そうしたトップレベルの研究者を塾内で育てなければなりません。
 そうした人材を招聘し,育て,塾内に確保しておくためには,それに相応しい待遇と研究条件を提供しなければなりません。とくに研究者にとって重要なのは,どれほど自分のやりたい研究を自由に,思い切りできるか,ということです。優秀な研究者確保のためにはこの研究条件をしっかりと確保することが不可欠です。
 そのためにはまず研究資金が重要です。とくに工学系,医学系の分野などでは,研究設備等に多額の資金を要するものもあり,研究成果をあげるためには大きな研究資金を投下することが求められます。そこについては,大型研究資金等を外部から獲得することを大学としてもしっかりと支援していきます。もちろんその場合には,研究の運営や成果管理もしっかりとしなければなりません。
 他方,社会科学や人文科学分野,あるいは自然科学分野でも理論系の研究の中には,じっくりと研究することで画期的な成果があがる可能性の高くなる分野もあります。そこでは,福澤先生が1893年の三田演説館における演説で自分の夢として,「学者飼い放し」と表現されたような,短期的な成果にしばられない,自律的で自由な研究環境を維持することも必要であると思います。そうした,自律的で自由な研究環境が独創的な研究成果をあげてきたことは塾の誇りでもあります。
 たとえば,昨年文化勲章を受章された速水融名誉教授の歴史人口学研究は,日本の歴史研究の実証科学化を進めた独創的な研究です。それは1つのテーマについて,資料の収集に10年,その分析に10年といったきわめて長期的スパンを必要とする研究です。しかも独創的な研究だけに,研究成果があがるかどうかはきわめて不確実なものでした。まさに学者飼い放しの中でしか生まれないような成果といえるでしょう。
 これは自然科学分野についても同様です。たとえば山形県鶴岡市の慶應義塾大学先端生命科学研究所の冨田勝所長は,生命情報科学の分野での画期的な研究成果が国際的にも高く評価され,昨年福澤賞を受賞されました。その福澤賞の受賞挨拶のなかで,鶴岡の研究所を引き受けるとき,当時の鳥居塾長から「『なんでもいいから面白いことをやってくれ』と言われ,私もどうせやるならとにかく人がやらないような面白いことをやろう,ということで,バイオとITを組み合わせたまったく新しい生命科学に特化して研究してきました」と述べておられます。
 いずれにしても研究者は研究をすることがなによりも好きで,独創的な研究成果をあげることに生きがいを感じる人たちです。そうした研究者の意欲に応え,結果として社会の持続可能性に貢献するような研究成果を得るために,必要な研究資金を確保すると同時に,自由で自律的な研究環境をさらに整備していきたいと考えています。

〔5〕財政基盤
 さて以上のような教育の質や研究の質を高めるには,財政基盤の充実も大切です。有り難いことに,学生生徒等納付金は滞りなくいただいておりますし,また政府の教育・研究助成も,当面は大幅な減額はなさそうです。また,病院の皆様方が頑張ってくださって医療収入もしっかり入ってきておりますので,日々の教育,研究,医療をしっかりと行い,なおかつその質を向上させていくための財政基盤については,問題はありません。
 やや問題があるのは,新たな設備投資を賄うための財源の部分です。これは皆様からいただく寄付金と資産の運用収入に依存するところが大きいわけです。このうちご寄付についてはお陰様で,創立150年記念事業分だけでも270億を超えるお申し込みをいただくなど,本当に有り難いことであります。他方,資産運用収入については,一昨年のリーマンショック以降の市場急落にともない,従来のほぼ半分になっております。
 われわれとしては,すでに決められている計画,とくに創立150年記念事業による投資計画は,必ず実行する決意です。ただし,上述のような資産の運用状況などが変わったことをうけて,建設計画のスケジュールについての見直しは避けられません。要するに現在の財政状況は,基本的な教育,研究,医療の質を維持し向上させるということについてはまったく問題ありません。しかし新たな建設投資などについては,その時期について見直しを必要としているということであります。

〔6〕生誕175年にあたって
 今年も私ども,これまでに引き続き教育,研究,医療の質を高めてまいりたいと思っております。きょう私の申し上げたかったことは,地球や人類,国際社会,そして日本の社会の持続可能性が問われるような大きな変化の時代には,実学によって自分の頭でものを考える人材を育てていく,あるいは,実学の精神に基づいてオリジナルな研究をさらに進めていくということが,ますます重要になってくるということです。その意味でその「実学」を説かれた福澤先生によって創立された慶應義塾が,社会に対して行いうる貢献は,今まで以上に大きなものになっているということです。
 本日の福澤先生のお誕生日に際して,あらためて福澤先生の有り難さを噛みしめたいと思います。そして冒頭にも申しましたように,今年はその福澤先生生誕175年の記念すべき年でもありますから,何らかのお祝いもさせていただきたいというふうにも思っております。
 まだまだ,いろいろお話したいこともございますが,このあと橋本五郎さんのお話があります。皆様,橋本さんのお話を楽しみにされていると思います。実は私も楽しみにしておりまして,早く橋本さんの講演を伺いたいと思いますので,私のお話はこのあたりで切り上げさせていただくことにいたします。
 最後になりますけれども,今年もまた,慶應義塾に対するご支援をお願いし,またきょうここにお集まりの皆様方のご健康と,ますますのご発展をお祈りいたしまして,私の年頭のご挨拶に代えさせていただきます。どうも有り難うございました。


(これは1月10日に開催された第175回福澤先生誕生記念会における清家塾長の年頭の挨拶である)



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