メインカラムの始まり
2007年08月14日 人を育む—150年の歴史とともに
慶應義塾長 安西 祐一郎
こんにちは、塾長の安西です。本日は授業と試験に挟まれた日程にもかかわらず、このように多くの皆様にご参加いただきまして、たいへん嬉しく存じます。 塾長として全国のいろいろな地域の三田会等にまいりますと、通信教育課程の卒業生とお会いする機会がたくさんあります。通信教育課程の卒業生は本当に慶應義塾思いで、勉強していた頃のことをいろいろお話ししていただけます。是非皆様も、夏の暑い盛りで大変だと思いますが、初志貫徹の決意を持って勉学に励んでください。西脇教授をはじめとして慶應義塾が皆様を応援しております。
当初の予定では三田キャンパスにて、23日にお話をさせていただく予定でしたが、都合により今日に変更させていただきましたことをお詫び申し上げます。23日はインドのデリーで日本とインドの大学の会合があります。日本の主要12大学と、インドの主要13大学が結集し、史上初めての学長レベルの会合が行なわれます。私は日本側のまとめ役の責を負っているため、通信教育課程の講演を、無理を申し上げて変更していただきました。皆様にご不便をお掛けしたことをお許しいただきたくお願い申し上げます。一方で、インドとの関係に限らず、東アジア、東南アジア、南アジア、あるいは世界と慶應義塾の関係をいい形でつくっていくのも、大変重要です。そのことものちほどお話しいたします。
アジアの中の日本と六つの特徴
来年は慶應義塾が創立150年を迎える記念の年ですが、1948(昭和23)年に開講された通信教育課程も、ちょうど来年に60年を迎えます。今日は塾長として、慶應義塾150年の歴史を中心にしてお話をさせていただきたいと思います。
今、新聞で教育の問題が掲載されない日はありません。連日のように、不登校やいじめの報道があります。一方で、中央教育審議会や教育再生会議等、さまざまな会議体で「教育改革が大事だ」という論があります。
教育を論じる時の特質として、教育はこうあるべきだ、これからの子ども達はこうあるべきだ、若い人達はこうあるべきだ、といった考えを誰もが簡単に言いがちなことが挙げられます。その点で大事なことは、議論における自分の立場をはっきりさせるということです。たとえば福澤諭吉先生の『文明論之概略』の第一章は「議論の本位を定る事」という標題です。「議論の本位を定る事」には、物事というのは相対的なもので、裏から見るのと表から見るのでは、価値の付け方が大きく異なりますが、どういう視点から見るのかをはっきりさせて議論をすべきです、と書かれています。
さて、インドの話を申し上げましたように、アジアの国を訪問することが最近大変頻繁になってまいりました。私がアジア諸国の大学の学長や大学生とお会いする度に触発され、あらためて気づかされることは、日本の大きな特徴のことです。これは6つあります。
第一は「政治」です。皆様の中には政治学の勉強をしている方もおられるかもしれません。日本の政治体制は、アジア諸国の中でどのような特徴を持っていると皆様はお考えになりますでしょうか。閣僚の不祥事やさまざまなことが騒がれておりますが、アジア諸国の中で相対的に見れば、日本の政治制度、政治体制といったシステムはある程度透明だと思います。
アジア諸国との比較で考えますと、日本の政治制度は、少なくともこれまでは、明治以来徐々に民主的な制度へと向かってきたと申し上げていいのではないかと思います。
二番目は「経済」です。皆様の中には経済学の勉強をしている方もおられるかと思います。アジア諸国を一つ一つ取り上げて比較してみれば、日本は相対的に透明な市場の制度を持っていると思われます。市場制度のみならず、経済のシステム、あるいは為替、株式のマーケット、金融の制度、経済界の状況等を見ても、日本の経済は第一級であると言えます。
三番目は「安全」です。夜に女性が一人で道を歩けるか否か、また安心して歩ける場所は全国でどのぐらいあるのか。たとえばこのようなことを、セキュリティの問題としてとらえたときに、アジア諸国の中で、日本がどの程度安全な国なのか推し量ることができるのではないかと思います。新聞報道では、さまざまな事件が掲載されています。しかし、諸外国と比較して、日本には「安全、安心」があると言えるのではないでしょうか。また、日本は一応全国で水道水が飲用になる、世界各国を見渡しても恵まれた国であると言えましょう。
四番目は「健康」です。今は女性の寿命は世界一、男性は世界三位となっています。寿命が長いからいいかどうかは、また別の問題だとは思いますが、いずれにしましても健康についてアジア諸国の中で群を抜いていると思います。
五番目は「教育」です。いじめ、不登校の問題、特に初等中等教育において、日本全国で学校はたいへん荒れております。私も教育関連の委員会に参加をしておりまして、そういうデータや実例等、いろいろなことを見聞きいたします。しかし日本のように、全国の小学校で一定レベルの教育が誰でも確実に受けられる国は、アジア諸国の中でいくつありますでしょう。
六番目は「自然・環境」です。寒い地域から暑い地域まで幅広く、また各地に豊かな四季があります。慶應義塾の塾長としては珍しいと思うのですが、私は国立の北海道大学に勤務していたことがあります。この中に北海道の方もおられるかもしれませんが、北海道の道東、道央のほうは確かに寒い地域ですが、本当にすばらしいところで、私はすっかり北海道応援団であります。また、常夏の地域もあります。先般テレビで小笠原諸島の番組が放送されておりましたが、小笠原は亜熱帯とされるところです。そして多くの地域に四季があります。アジア諸国を見ましても、国中が同じような気候の地域はずいぶんあるわけです。そういった国々と日本とは、非常に違うのだということも申し上げたいと思っております。豊かな風土や自然を私達は長い間維持してきたのです。
未来への道としての「教育」
いろいろな面から、今の日本は悪い要素が増えていると言われています。けれども、今申し上げたようなことを挙げていきますと、日本には良い要素もたくさんあったはずなのです。それが今溶けて流れるのではないかと言われはじめています。私も多少そう思うところがあります。慶應義塾の場合、三田会、通信教育課程卒業生の三田会等も含めまして卒業生の会が、国内だけで800以上もあります。その幾つかに伺わせていただくと、確かに地域によって経済格差があることを実感します。
申し上げたいことは、豊かな社会をつくるにあたって大事なのは「教育」だということです。これは鳥取県知事をされていた義塾の片山善博教授が言われています。それぞれの地域を発展させるためには、県議会の議員、あるいは、市議会、町議等の人達を含めて、各地域の未来を見通し、発展を先導できる人が出てこないといけません。そのようなリーダーたる人達を育てなければだめだと、片山教授は言われています。これは、私はその通りだと思います。それぞれの地域でリーダーシップを発揮していける、あるいは、先を見て、ある意味体を張ってその地域の発展に尽くしていく、そのような人間を育てることが、これからの日本にとって本当に大事だと思うのです。地域社会について申しましたが、国際社会についても同じことです。
これこそが今、私が日本について、あるいは、教育について考えていることのエッセンスです。
日本は、本当はさきほど申し上げたような意味で、世界に誇れる成熟した民主主義を、アジアの中で最初に実現していけるはずの国なのです。それが実際にできるかは、今教育をどうするかにかかっているのです。特に慶應義塾という学校が、社会のリーダーを育む教育を先導しなければいけません。それが私自身の最も奥底にある信念です。だからこそ塾長としていろいろなところで、使命感を持って話もでき、実行もできるのです。
日本がそういう意味での「教育立国」という理念を実践していけば、これからの世界、あるいは、国内のそれぞれの地域の繁栄、安定、安全、安心等が、きちんと確立されていくと思います。
最初にこういう自分の考えを申し上げたのは、そのことと、今の慶應義塾のことと、一五〇年前に福澤先生が当時の日本を考えて、一体どういうことを書き、実行していったのかということが、ぴったり重なってくるからです。
150年前の歴史背景——福澤先生の明治時代
戦後50年間、特に戦後の朝鮮戦争から1989(平成元)年にベルリンの壁が崩壊する頃まで、アメリカとソビエトの東西冷戦状況が続き、日本はアメリカの傘の下で経済成長を遂げてきました。政治、外交的にはナイーブな状態のまま、経済が膨らんでいったと考えられますが、しかし、1990年以降それまでの状況が一転しました。それは鎖国から一挙に開国の状況へ移っていった150年前の日本を連想させます。
福澤諭吉先生が生まれたのは、1835(天保5)年のことです。同じ年に生まれた作家には、アメリカに『トム・ソーヤーの冒険』のマーク・トゥエーンがいます。あるいは、政治学に興味がおありの方はご存じかと思いますが、福澤先生が生まれた年は、ちょうどアレクシス・ド・トクヴィルというフランスの政治思想家が『アメリカの民主政治』という大変有名な本を出版した年でもあります。もちろんアメリカは独立戦争後の「独立宣言」から何年か経ていますが南北戦争はまだの時代で、福澤先生が生まれた1835(天保5)年頃のことを、当時世界の中で起こったさまざまな出来事と併せて考えてご覧になると面白いと思います。
ご存じのように、福澤先生が生まれたのは大阪の中津藩の蔵屋敷です。余談になりますが、その蔵屋敷は今の大阪の中之島、堂島川のほとりにありまして、生誕の碑が建っています。この生誕の碑は大阪慶應倶楽部が長い間管理してくださっていますが、来年慶應義塾が150年を迎えるにあたり、その碑のある場所に隣接したビルの一部を借りまして、慶應義塾の関西小拠点を置くことにいたしました。そこでも通信教育課程のセミナー等ができるといいのではないかと思っております。
福澤先生は、父上が亡くなられていったん大阪から中津へ戻り、19の時に長崎に留学をして蘭学の勉強をします。それから大阪へ戻り、適塾で緒方洪庵に学び、そして中津藩の殿様に呼ばれて江戸の中津藩中屋敷で蘭学の指導をすることになりました。これが23歳の時で、1858(安政5)年のことです。慶應義塾の起源はそこに定められています。
さきほど、現在の日本の特徴を申し上げました。世界がいろいろな意味で急激に変化をしておりますが、あの頃の時代に比べれば今はのんきなものだと思います。福澤先生が江戸の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に蘭学の塾を開かれた1858年は、「安政の大獄」の時です。その翌年に吉田松陰、橋本左内といった幕末の志士、学者が処刑されました。このような時期に福澤先生は蘭学塾をはじめられました。その後、まもなく横浜を訪れたところ、オランダ語が通じず、英語しか通じないという体験をします。そこで、「これからは英語の時代だ」ということで英語塾に変えていこうと、猛烈に英語を勉強し、1860(万延元)年に咸臨丸に乗ってアメリカに渡ることになるわけです。
1860年代は、井伊直弼大老が暗殺された桜田門外の変が起こり、次いで、作家司馬遼太郎の描くところの『竜馬がゆく』でお馴染みの坂本龍馬が活躍をした時代であります。そして1868(明治元)年に明治維新がきます。
福澤先生は、とにかく「各人が勉強して、ひとりひとりが独立心を持って活動し、はじめて一国が独立をする」ということを、国民みなが理解するべきだと考えていました。慶應義塾の中では福澤先生の思想を素晴らしいと皆が言っていますが、私も心からそう思うのです。ただ、義塾の外では誰もがそう言っていたわけではありません。たとえば『脱亜論』につきましても、誤解をされていた面が多々あると思います。日本が欧米のようになればいいと、福澤諭吉先生が思ったのではないかというのも、私は誤解だと思います。これは『文明論之概略』という本の「緒言」をお読みになればすぐに判明することですが、福澤諭吉先生は日本がどうなるか、日本という国をどうするかということに関心があったのであり、アメリカのようにしたいとか、イギリスのようにしたいと心底思った、ということではないと思います。
近代をつくった慶應義塾
いずれにしても1868年の明治維新は象徴的にもアジア近代化の先駆けでありました。『福翁自伝』によれば、福澤諭吉先生は暗殺されかかったことがあり、しばらくの間、夜は外へ出ないようにしたという記述があります。三田の近くに暗殺者が潜んでいたということです。そういう時代ですから、わが身に迫る危機感は、今とは比較にならないでしょう。福澤先生と比較してもいけませんが、今は塾長が外を歩いたからといって、後ろから刀で斬られるということはまず考えられません。
1868年に明治維新が起こってから、教育に関して多くの動きがありました。日本の教育は日本の津々浦々あまねく一定のレベルに達したと、さきほど申し上げました。これは江戸時代からの教育レベルの高さを背景としてはいますが、直接には明治政府の功績でした。明治になってまもなく、政府は日本全国に数多くの小学校を設置しました。小学校といっても今のように六年制ではなく、もっと短い年数でした。1877(明治10)年になる前には、同時に中学校もつくられました。たとえば、各県に中学校がまず一つずつ設置されましたが、そういうところに赴任した中学校の校長先生、あるいは主要な教員は、慶應義塾から赴任した人々が多かったのです。その理由は、1868年の明治維新より十年前の1858年から洋学の塾を開き、多くの門下生を出していた塾は、慶應義塾をおいて他に存在しなかったからです。福澤先生がいろいろな方面から依頼されて、義塾の卒業生を全国に派遣したことが、日本の教育の土台の一つを形成したのはまぎれもない事実です。
1907(明治40)年になり、尋常小学校六年制になった時には、すでに小学校に入学する子どもの割合は、男子で96から99%、女子で93%に到達しました。これはその頃の世界の国々を見ても、非常に高い就学率でし
た。実は、その基礎は明治の初めに、全国に飛び立った慶應義塾の卒業生によってつくられたのです。これは日本のいろいろな地域の地方史でもわかるでしょうし、福澤研究センターでも十分に把握していると思います。
その明治開国の時代から長い年月が経ちましたが、慶應義塾150年の歴史というのは、日本の近代化の歴史であったと申し上げてよいと思います。特に明治時代に、慶應義塾という国策ではない私立の学校が人材を輩出して、そういう人達が日本や世界のいろいろな地域に根を張って、日本の近代をつくっていったのです。ただし、皆様の学んでいる慶應義塾は、余裕を持ってそのようなことをしてきたのではなく、多くの心ある人達が、大変な苦労をして今の慶應義塾の歴史を築いてきたのだということも、あえて申し上げておきたいと思います。
慶應義塾の発展へ向けて
1877(明治10)年の頃、西郷隆盛による「西南戦争」が起き、また終焉しました。それもあってこの頃には
たいへんなインフレが起こり、物資が不足し、物価がたいへん上がりました。慶應義塾にとっては入学希望者や在学生が激減するという影響がありました。慶應義塾は日本で初めて授業料を取った学校でありますが、江戸に子供をやれない、あるいは、授業料が払えないといった問題が発生しました。在学生においても辞める人達が多くなり、収入が激減して1879(明治12)年には、福澤先生は慶應義塾を廃校にしてもよいと言及されたそうです。
しかし、そういう危機の局面を乗り越え、1880(明治13)年に「慶應義塾維持法案」ができました。同じ
頃、慶應義塾を思う塾員と篤志家の方々により「慶應義塾維持会」が設置されました。浄財を慶應義塾にご寄付くださり、それを慶應義塾で必要なときに使うという仕組みでありまして、現在も脈々と受け継がれております。
それから1879年が過ぎまして、少々飛びますが、福澤先生が亡くなられたのが1901(明治34)年です。創立者が亡くなると学校というのは立ち行かなくなることがしばしばあります。特に影響力の強い創立者が亡くなった後は、むしろ萎んでいくのが普通と言えるかもしれません。その時もやはり、これから慶應義塾をどうしていくのかについて、卒業生、あるいは学校に残っていた人達が真剣に話し合いました。そして結論は、20世紀になった1901年を期して、これからの新しい世紀の「学問の府」として、慶應義塾を盛り立てていこうではないかということになったのです。
そして1907(明治40)年になり、創立50年記念式典が行なわれました。1858(安政5)年が創立ですが、昔は数え年で1858年から50年目というのは1907年になり、1907年が創立50年にあたります。それとともに、「これから慶應義塾は世界を先導する学問をやっていくのだ」という気概と志を持った「学問のシンボル」が計画されました。これが、三田の山にある、煉瓦造りの八角塔のある旧図書館です。しかし、箱物がつくりたくて建てたわけではありません。先生亡き後の慶應義塾は20世紀、「新世紀の学問の府」として立ち上がっていくのだということを、世に示すためにつくられたものであります。
ですから、三田に行かれた時に旧図書館をご覧になったら、是非そういう目で見ていただければと思います。中へ入ると、正面に「ペンは剣よりも強し」と描かれたステンドグラスがあります。この思想がいちばん大事なもので、箱だけが大事なわけではないということです。
そして、1899(明治32)年に、第一回の海外留学生を派遣し、以来1919(大正8)年まで、2、3年に一度ずつ、独・米・仏・英などに数名ずつ留学生を派遣しました。加えて、創立50年の一年前、1906(明治39)年に、慶應義塾に初めて大学院が設置されています。
申し上げたいのは、創立者亡き後も決してその志が失われることはなかったということです。むしろ学問の府としてさらに進んでいこうという気概を持った塾員と、それをバックアップしてくれる多くの応援団がおられたということです。
近代化への貢献
明治時代には、初代総理大臣の伊藤博文らと、それから早稲田大学の創立者である大隈重信侯らの対立があり、1881(明治14)年に大隈重信が下野しました。それが「明治十四年の政変」です。当時の大隈重信侯は大蔵卿、今の財務大臣でしたが、大隈重信侯の下などで働いていた慶應義塾の優れた卒業生がいっせいに辞めました。その中には、三井の中興の祖と言われる中上川彦次郎をはじめとする多くの人材がおりました。
さきほど、明治の初めから、慶應義塾は教育の普及に大きく貢献したと申し上げましたが、この明治十四年の政変をきっかけとして、慶應義塾の卒業生達の舞台は主に経済界へと移っていきました。そして特に明治の中期以降、金融から百貨店、あるいは、鉄道、ジャーナリズムといったありとあらゆる分野において、今で言う起業を、慶應義塾の福澤門下生が率先してやってきたのです。それが今「慶應義塾は経済界に強い」、「財界に強い」という社会からの評価へとつながっているのです。慶應義塾はもともと財界にだけ強かったわけではありません。東京帝国大学の渡邊洪基初代総長、第三代の濱尾新総長は慶應義塾の出身者です。慶應義塾が洋学の塾を、福澤諭吉先生の先見の明で早くからやってきたことが、明治時代の日本近代化の原動力になったことは、やはりまぎれもない事実だと思います。
1930年代の後半になりまして、第二次世界大戦が起こりました。これが大変な混乱を生みました。私がお話ししているようなことはすでに知っているという方もおられるかもしれませんが、あらためて慶應義塾の歴史を噛みしめていただきたいと思うのです。第二次大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)では、施設の面で慶應義塾が、日本で最大の戦災を被った学校だと言われています。特に三田、日吉の建物の大部分は瓦礫の山になってしまいました。それだけではなく、特にこの日吉は終戦になった直後の1945(昭和20)年から1949(昭和24)年まで、連合軍に接収されていました。戦時中には日本の総司令部があり、今でも防空壕跡がありますが、GHQに接収された四年間は、日吉キャンパスが使えなかったわけです。
そういう大変な苦労を経て、福澤先生が塾を創られてから100年目にあたる1958(昭和33)年に、創立100年の記念式典が行なわれました。創立50年のときには学問のシンボルである三田の図書館を建てましたが、創立100年の時は戦争の傷跡から立ち上がるのがやっとでした。1958年、この日吉は、米軍のカマボコ兵舎だらけでした。
とにかく三田、日吉に教室をつくらなければならないという状況があり、それでつくられたのがこの第四校舎の建物なのです。それから続いて、第五校舎や、第六校舎が建てられました。こうした建物は創立100年記念に建てられた教室棟で、すでに五十年が経過しようとしています。それから銀杏並木を真っすぐ進んだ突き当たりにある日吉記念館や三田の正門を入ってすぐの南校舎、また奥の西校舎も創立100年を記念して建てられたものです。
1958年、戦後十数年が経過していたそのときの慶應義塾は、教室をつくるので精一杯だった、そういうたいへんな時期もあったということです。
「独立自尊」の精神を育む
創立100年からさらに50年が経ち、慶應義塾は来年150年を迎えます。義塾は私学であり、明治以来国策によって、多額の税金を注ぎ込んでやってきた大学ではありません。福澤諭吉先生とその門下生が掲げた「独立自尊」の精神が慶應義塾の根本にあります。その精神に基づいて、自ら考え、自ら行動する個人があって、そういう人達が一緒に協力し合って、初めて公、また国が成り立っていくのだという考え方のもとに、一五〇年教育、研究、医療等を行なってきた学塾が慶應義塾なのです。今から4年前の2004(平成16)年に、国立大学が法人化されました。国立大学が独立行政法人になり、私学的な経営の方法も学ばなければならなくなってきました。大学間の競争も非常に激しくなってきました。そのような中で慶應義塾は、150年間一貫して、今申し上げた「独立自尊」の精神を持った人材を生み続けているのです。それは本当にすごいことだと思います。
慶應義塾も大きくなり、今世界中に塾員、卒業生の方は30万人ぐらいおられます。通信教育課程の卒業生もたくさんおられます。そういう方々には、「独立自尊」の精神が根付いています。自由に学問をして、自らその学問を血肉にして、それを世の中に役立てていこう、ということが、たとえ意識していなくても、身に付いていくものなのです。それが慶應義塾の不思議なところであり、また当然のことだと思います。
来年創立150年を迎えるにあたりまして、慶應義塾はこれからの未来を考えなければなりません。自分自身も、また、皆様にも当てはまりますが、慶應義塾に学ぶ者は、150年という日本近代の歴史と、慶應義塾という学校の歴史を背負っているのです。そのうえで、これから一体何をしていったらいいのか、慶應義塾は何をすべきか、皆様はどのようなお考えをお持ちでしょうか。私は、第一に「人を育む」ということだと思います。それでは、どのような人を育めばいいのでしょうか。福澤先生は、たとえば『学問のすゝめ』にありますように、義塾創立の頃から、「一身独立して一国独立す」ということを説きました。封建制度を抜け出て、世界の列強と並び立つ新しい日本という国づくりのための人間を育んでいかなければならないと思ったことでしょう。
信頼のおける技術の必要性
今日本は、世界第二の経済大国です。子ども達を見ても、色々な地域間の違いはありますが、格差は昔に比べれば、小さいと言えます。私は戦後まもなくの生まれですが、自分の生まれ育った頃に比べれば、今の日本の子ども達はずっと豊かな社会に生きています。現代の、「何を目標にしていいかわからない」という言葉の意味は、『坂の上の雲』で書かれた明治の時代とは少し違います。多極化する社会の中で、何を目標にして人を育めばいいのでしょうか。それはやはり原点に戻って考えると、「独立自尊」という精神に帰り着くのです。具体的な分野を言えば、最初に申し上げた、政治、経済においても、あるいは、安全、安心、環境、健康、あるいは、教育、自然、あるいは、技術の分野においても言えます。
少々話が飛びますが、最初に申し上げたように政治でも経済でも、新聞等でいろいろなことが報道されております。事実私も身近に、これはひどいという状況を見ることが、多々あるのです。しかし、マクロな視点から、日本という国をより良い国にしたいと冷静に願えば願うほど、日本の良い点を伸ばす見方をすべきだと思っております。
技術という面に目を向けても、いろいろなことが起こっています。しかし、よく見ると技術の問題の多くに人間のミスが絡んでいるのです。
たとえば、この間の新潟の中越沖地震にあたっては、柏崎の原子力発電所のことが大々的に報じられました。これは放射能が漏れたから報じられたわけではなくて、変圧器のところで火事が起きた、それに対して化学消防車がちゃんと整備されていなかったというのが最初のきっかけであります。それから水漏れに放射能が含まれているということも言われたのですが、その含まれている放射能の量というのは、実は自然に私達が日常浴びている放射能よりも少ないのです。しかし、新聞報道やテレビ報道を通すと、私達は、柏崎原発は放射能だらけになってしまったのではないかと思いがちです。冷静に情報を受けとめ、きちんと事実をとらえることが大事だと思います。新聞を見ると何でも、これは大変だと思うのではなく、正確に事実が書いてあるのかどうかを判断することが大切です。いくつかの新聞を並べて見ればわかるように、同じことが全然違うことのように書いてあるわけです。人の言ったこと、書いたことに対しては論理的に冷静な見方をすべきで、そのためのトレーニングは特に日本の学生にとても必要だと思います。弁護するわけではありませんが、柏崎原発が今止まっている、いつ動き出すかわからないという状況で電力が不足すれば、火力発電所を別に動かすことになります。それによるCO2の排出量というのは莫大な量にのぼります。
そのようなことを総合的にふまえて、日本の電力供給をどうすればいいのか、またそのための技術をどのように保持すればいいのかを考えなければなりません。
日本の技術というのはこれまで、アジア諸国の中では相当に信頼できるレベルにありました。しかし、今後は中国、韓国、シンガポールといった国々と競争していくことになります。日本の技術を伸ばしていくためには、何よりも教育が大事です。私は、国際的な競争が避けられない未来を見越して、技術者になる人に限らず技術に関連した人間教育をしっかりやらなければいけないと思います。
それには高等学校の教育がとても大切なのですが、高等学校、中学校等の理科の先生方は、大体において自然科学あるいは自然科学教育の勉強をされてこられた方が多いはずです。しかし、自然科学と技術というのは本質的な意味がかなり異なります。技術というのは人の役に立たなければなりません。中学校と高等学校では、人や社会の役に立つ学問や、倫理等を含んだ幅の広い教育が、おろそかにされがちであります。入学試験等の関係もあって、中高における技術の教育には、かなり根の深い問題があるのです。
ただ、少なくとも、日本の技術は信頼性がとても高いのです。たとえば、電力一つとっても、昔と違ってあまり停電が起こりません。また、電圧が上がったり下がったりあまりせず、電圧の供給が非常に安定しております。したがって、テレビ放送も電波の影響ではめったに乱れません。一方で、いたるところでテレビをつけたままにするなど、人工衛星から見ると日本だけ夜中でも光っているといった現象が起こっています。電力一つ取っても、とてもたくさんの問題があります。
「育む」ためのキャンパス
話は元へ戻りまして、現代にこそ、「人を育む」ということが一層大事になってきております。それで慶應義塾は創立150年の記念事業を一昨年から始めております。この事業は10年の計画で着実に進めていくことになっています。特に「人を育む」ことを目的に、教育の中身をしっかりつくっていきたいということは、いろいろな所でお話をしております。一方では施設に関することも大事な問題です。特にさきほど申し上げたように創立100年の際に建てられたこの第四校舎等を建て替えることは、安全性の問題を考えてもきわめて大切です。人を育むためのキャンパスの整備を今手掛けておりまして、このキャンパスでもたくさんの工事をしております。これから150年の記念の年を迎え、教育に力を入れ、日本と世界の新たな道を拓くことを考えますと、どうしても施設の建て替えを、やっておかなければならないのです。
歴史とともに自分を感じる
皆様の中には、歴史に興味のある方もいれば、文学に興味のある方、経済、政治、法律、さまざまなことに興味をお持ちの方がいらっしゃると思います。その中でも歴史の面白さというのは、皆様が想像力を高めることによって感じることができます。たとえば、1858(安政5)年に福澤先生によって義塾が創立され、150年がまもなく経ちますが、では1858年の当時から150年前には何があったのでしょう。福澤先生が蘭学塾を開いたそのときに、それより150年前を振り返ったとしたら、どのような出来事があったのでしょう。1858年より一50年少し前に起こったのは、元禄時代の「赤穂浪士の討ち入り」です。福澤先生は討ち入りについて辛口の批評をしていますが、先生にとっての150年前というのは元禄時代です。われわれにとって150年前は福澤先生の時代です。今の還暦ぐらいの方にとっての日露戦争と、今の十代後半ぐらいの人達にとっての太平洋戦争というのは、大体同じぐらいの月日の隔たりであります。
やはり歴史というのはその中に身を置いて、その時代とともに自分を感じるということが大事なのではないかと常々思っております。特に慶應義塾は来年2008(平成20)年に創立150年を迎える、日本最古の歴史を持つ近代総合学塾です。その義塾で学ぶ皆様には、義塾の歴史の価値を、自分自身をその中に置いて感じてほしいと思います。
ところで、今年は東京大学の創立130年、早稲田大学の創立一二五年にあたります。『文芸春秋』(2007年9月特別号)に「早慶学長対談」が掲載されておりますので、是非ご覧ください。大隈重信候、それから福澤諭吉先生のこと等、今日お話ししたことも含めていろいろ書かれています。日本の近代化が、2つの大学の創始者とその卒業生、とりわけ歴史の古い義塾によって導かれてきたことが、よくわかるのではないかと思います。
明治維新より十年前にできた慶應義塾が、150年の間、日本の発展を先導してきました。皆様はその大学で学んでおられるということをあらためて感じていただきたいと思います。
最初に西脇教授がおっしゃった内容の繰り返しとなりますが、スクーリングというのは、慶應義塾の歴史と伝統を感じるのにとても良い機会です。皆様の夢と志の実現に向けて努力を重ねていただくと同時に、これからの未来を慶應義塾とともに歩んでいただきたいと思っております。これからの健闘に心から期待いたします。また、夏は暑いですから健康にも十分気を付けていただき、励んでいただきたいと思います。どうもありがとうございました。
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