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2003年10月04日 語力教育とは何か

慶應義塾長  安西 祐一郎
この十月から、新たに慶應義塾大学外国語教育研究センターが活動を開始いたしました。私は、慶應義塾における外国語教育の新しい時代がこれから始まるのだと捉えています。新たな時代の外国語教育をリードすべく、慶應義塾大学外国語教育研究センターが発足したことを心から祝福いたしております。また、外国語教育研究センターの開設に際して、関係者の方々に大変なご尽力をいただきました。深く感謝を申し上げたいと存じます。今後我々一人ひとりが努力していかなければならないわけでありますが、ぜひ学内外の皆様のご指導、ご支援をいただきますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、今日の講演を外国語教育研究センターから依頼されましたときに、「語力教育とは何か」という演題をいただきました。慶應義塾のみならず、日本全体の問題であると思いますが、言語の問題、ことばの問題、そしてその教育の問題、それらを突き詰めて一つに絞っていきますと、特に若い世代において「語力」と申しますか、「ことばの力」がなくなっているのではないか。これは、塾長に就任するずっと前から長く考えていたことであります。

 「力」と申しましてもたいへん抽象的で曖昧な言葉でありますけれども、相対的に言っても、自分の魂から、あるいは自分の心から湧き出るような「ことばの力」というものが、いまの若い世代、あるいは子どもたちの世代から消えつつあるのではないか。そういう危機感を強くもっております。もしそうであるとすれば、慶應義塾こそが「ことばの力」の教育を本格的にやっていく学塾でなければなりません。

 さきほど迫村所長が言われた具体的な方策、センターがいまやろうとしている具体的な方策を、ぜひ実現していただきたいと思っておりますが、慶應義塾は小学校から大学院までございますので、それらの方策の根底にある理念というのでしょうか、それらを突き通すものの考え方を表現したい、その表現として、私は「ことばの力」、「語力」という言葉を使っているのです。

 「慶應義塾21世紀グランドデザイン」を一昨年の九月に発表いたしました。私が塾長になりましてから四カ月後のことです。そして、昨年の七月にそのグランドデザインを具体化していくための改革プランとして、「総合改革プラン二〇〇二~二〇〇六」という五カ年計画を学内に発表いたしました。慶應義塾のホームページにも記載されていますが、そのプランの中に「語力教育の充実」という項目を含めています。十月から立ち上がりました外国語教育研究センターは、その基底にある目標として、この「語力教育の充実」をやっていただけるものと考えています。特に「教育」という言葉を強調しておりますのは、慶應義塾が今後第一に考えていくべきこと、また具体的に実行していくべきことは、教育の改革だと思っているからです。

 人間の発達は、生まれてから、あるいは生まれる前から生涯にわたって継続して行われるものである、と捉えるのは比較的最近の考え方ですが、この生涯発達の考え方に立って、私自身の見方で見ますと、人間の発達は「痛みを共有できる力(愛着)」、「コミュニケーションの背景を共有できる力(友だち)」、「知覚できない過去・現在・未来の時空を共有できる力(想像)」、「自己を客体化する力(個人)」、「他人を尊重する力(共生)」などの新しい力を生涯にわたって獲得していく過程であると捉えることができます。

 いま挙げたこれらの力は、幼い頃、小学校の頃、中学校の頃、高校の頃、大学の頃、あるいは大学院、社会等々、それぞれのときに順番に対応して身につけるというわけではありません。たとえば「自己を客体化する力」。この力を身につけることは、大人でもなかなか難しい。自分を相対的に見ることのできる力は、「教養」の本質につながるものだと考えていますが、本当に難しいことです。

 しかしながら私は、「語力教育」について考える際の基底として、そういった新しい力を獲得していく、あるいは発達の段階で言えば前に戻って身につけていく、そういう生涯発達の過程があるであろうと想定しているわけであります。「語力教育」も、こういった生涯発達の過程を考えに入れながら行っていくべきだろうと思います。また、学校で学ぶべきことは「言語」だけではない。「生命」つまり生と死の問題、「歴史」、「制度」、「文化」等々、人間が創り出してきた、あるいは進化の過程で人がいろいろに絡んできた大切なもの、大切なことがある。学校のときにこれらのことを学ぶ、身につける、身体に浸み込ませるということは、とても大事だと思います。

 こういったことを考慮に入れて、あらためて「ことばの力」、「語力」を考えてみると、言語学の分野の言葉を一部使わせていただければ、それはおそらく「言語使用における判断力」ということになるのではないかと思います。もちろんシンタックスとかセマンティクスとかプラグマティクスとかいろいろな言葉遣いの中でお考えいただいて結構なのですが、「言語使用における判断力」は、いままであまり考慮されてこなかった側面でないかと思います。これまでに言われてきたことが重要でないというわけではありませんが、あまり考慮されてこなかった、あるいは考えられていてもなかなかそれが口に出されてはこなかった側面として、私は「判断力」を取り上げています。

 「判断力」とは何かと言いますと、どういう言葉を使えばいいのか、いつどういう言葉を発すればいいのか、どういう文体を使えばいいのか、そういった判断をする力であるということです。もっと具体的には、「ほんものの情報を生み出し、理解し、構造化し、揺るぎなく表現する力」、「語彙、文法、意味、文脈、他の言語要素を適切に使う力」ということです。さらには「記憶力、思考力、身体能力、生命力」といった、非専門用語ではあるけれどもよく使われる単語に伍して言えば「言語力」。よく表現力と言いますが、表現力も含めて、言葉の使い方を判断し、選んでいく力をここでは「言語使用における判断力」と呼んでいます。

 よく「話す、聞く、書く、読む」と言いますが、そのうち「聞く」と「読む」は、向こうから情報がくるという面がある。それに対して「言う」、「書く」はまったくの自分からの行為(アクション)です。「聞く」、「読む」が重要でないということではありませんが、ここでは「言う」、「書く」を多少重視して申し上げます。

 そこでさらに細かく「言う」、「書く」を考えると、その際大切なことの一つは、まずやはり、他人の立場や痛みを理解する、考慮するということであります。また、発話文脈全体のバランスを把握するということも大事です。自分の経験とか知識の体系に照らすことも大切です。これは大人に限ることではなく、高校生、中学生、小学生でも同じです。また、総合的な構想力もたいへん大事です。さらに、単語・音韻・文体・字体・情感・呼吸・リズムもある。もちろん論理的に整合した内容と表現も大事です。ロジックを外すということも一つの表現だとは思いますが、それは今申し上げていることが身についてからの話です。何を言うか、どういうふうに言うか、どういうふうに書くか、何を書くかということの判断をするときに、今申し上げたような事柄が非常に大切です。そして最後には、自分の責任と覚悟をもってものを言う、ものを書くということが、きわめて重要なこととして挙げられます。

 「語力教育の充実」という項目を総合改革プランに入れたのは、いま累々申し上げた「ことばの力」がこれからますます重要になってくると確信していたからであります。私が「語力」と言うときには、外国語だけでなく日本語も含めておりますけれども、実際にはさきほど迫村先生が挙げておられたような、さまざまな外国語教育の中での具体的なスキルの獲得がきわめて大切です。私がいま申し上げている事柄は、具体的なスキルの獲得と矛盾するものではなく、むしろそうしたスキル獲得を支え、推進するための根拠と位置づけることができます。

 少し余談になりますけれども、私が「語力」という言葉を使っておりましたら、慶應の名誉教授の鈴木孝夫先生が、「言力」という言葉を使っている人がいると教えてくださいました。鈴木先生のお話では、「言力」という言葉は、故小渕元首相のもとで行われた「21世紀日本の構想懇談会」で出た言葉だそうで、今日のパネリストである国分先生も参加されていたそうです。しかし「語力」という言葉はこれまで聞いたことはないので、オリジナルな語として使っております。

 では、「ことばの力」、「語力」は教えられるか。「語力」は言葉だけの問題ではない。他人の心のひだを知覚できるかがとても大切です。また、状況の本質を端的に理解し、関係づけて記憶できるかも大事です。教養の蓄積ということも重要です。さらに、「フェアネス」という言葉がありますけれども、いろいろなことにバランスをもって目配りをすることが必要で、ある一面、ある一方だけの側面からの主張をするだけでは「ことばの力」にはならないのです。「語力」の裏には「フェアネス」ということがあると思います。また、「状況判断」と「論理」を柔軟に組み合わせられることも必要です。論理だけで状況判断を全くせずにいることはできないし、その場その場の状況に揺れ動いてしまってもいけない、これら二つを組み合わせることが非常に重要です。さらに、さきほども申し上げましたが、自分の言葉に対して自分が責任を負えるということ、これは「語力」の非常に重要な側面です。

 「語力は教えられるか」を考えるとき、言語能力の臨界期と生涯発達の過程の関係はとても重要です。言語能力の臨界期については発達心理学、あるいは言語心理学の方はよくご存じのことですが、臨界期と、さきほど申し上げた自己の客体化等々の生涯発達の過程は微妙に絡まっています。実際には小学校、中学校といった教育制度とはまた違った個々人の発達段階があるわけですが、生涯発達の過程に合わせた「語力」の教育のしかたがありうるのか、という問題があります。少人数で教えられればいいのかもしれません。

 また、「e-ラーニング」はどういう場面で、どういう側面に対して有効かということも、「語力教育」を実行するときの一つの大きな課題です。

 「語力」を身につけるためには、私は、文法をしっかり教えることも非常に役に立つと思いますし、語彙を覚えることもとても大切だと思っています。素読とか暗誦も非常に大事ですし、さきほど申し上げた単語の選択の仕方、明快な話し方、書き方、あるいは、美しい話し方、書き方ということも大事な点です。それから、このセンターでも取り上げられるとのことですが、ディベートをどう捉えていくか。ディベートには、いろいろなやり方もありますし、それだけでは限界もあると思いますが、これからは特に重要になってくると思います。また、言語に関心のおありの方はご存じかと思いますが、比喩とかアナロジーの効用と限界は、プラグマティクスにおいて非常に重要な問題を投げかけています。

 しかし結局、「語力」を身につけることは、自分自身のなんらかの目標とか、なんらかの願望とか、何かしたいという気持ちがないと、なかなかできません。このような内発的なことと、外から教え込む、あるいは外から十分に鍛える、外発的なこととの相剋をどういうふうに解決していくのか。言語を学ぶ目標としては、ある特定の言語についてある特定のレベルを達成する、といった目標でなくてもいいわけで、自分の近い将来のなんらかの目標、あるいは遠い未来でもいいですけれども、目標を持つこと、持たせることが、「語力」を育んでいくにはとても大事です。 

 それでは、いくつか「語力」の例を挙げていきたいと思います。外国語教育研究センターが慶應義塾に開所されたことでありますので、まず福澤諭吉先生の『学問のすゝめ』を「判断力としての語力」の例として取り上げます。

  天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、萬人は萬人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、萬物の靈たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨をなさずして各安樂に此世を渡らしめ給ふの趣意なり。されども今広く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。……
(福澤諭吉・小幡篤次郎『学問のすゝめ』初編、『福澤諭吉全集』第三巻二十九ページ、岩波書店、一九五九)

 この文章を書くとき、言葉を選ぶのに著者が心の中でどのような判断をしたのかについては、「……と云へり」、「…の趣意なり」という慎重な言葉の使い方と、他方で「其次第甚だ明なり」と断言する使い方と、その間に例を入れ、言葉のリズムを入れ、もちろん推測の域を出ませんが、「言葉の使用に関する判断力」としての「語力」の例としてふさわしいと思います。

 もちろん、『学問のすゝめ』に垣間見える「ことばの力」は、判断力に限るわけではありません。福澤先生の文章、言葉には力があるということは、多くの人が言うことです。言葉に力がある、ということの裏には何があるのでしょうか。やはりそこには、福澤にはやりたいことがある、言いたいことがあるということが、第一だと思います。また、文体はもちろん、比喩の使い方とか、退くべきところは退くといった一種のレトリックなど、細かく見ていきますと、福澤先生の文章は非常に勉強になります。今申し上げたように、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」としておいて、以下で「渡らしめ給ふの趣意なり」としっかりと受けており、そのあとに自分のメッセージを書き並べるという、そういう構成になっているわけです。しかもそれは、単に並べただけではありません。慶應義塾での講演だからというわけではありませんが、「語力」を考えるに当たって、福澤先生の文章はたいへん参考になると思います。

 もう一つ福澤先生の文章を例に取りますが、一八九六年、亡くなられる五年近く前に述べられ、また書かれた「慶應義塾の目的」という文章があります。

慶應義塾は單に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず其目的は、我日本國中に於ける氣品の泉源智徳の模範たらんことを期し之を實際にしては居家處世立國の本旨を明らかにして之を口に言ふのみにあらず、躬行實踐以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり。…...(『福澤諭吉全集』第二十巻四七六ページ、岩波書店、一九五九)

 この文章は当時の時事新報にも載っていますが、意思の力としての「語力」を端的に表す良い例だと思います。この文章を述べた人、書いた人が一体何を思っているのか、何を欲しているのか、思っていることを人に知らしめたい、という内側からの力が溢れている、そしてくどくどしいぜい肉を削ぎ落した、必要十分な言葉遣いをしています。

 余談ですが、その中にある「氣品の泉源智徳の模範」という言葉は、慶應義塾の中でも外でもよく取り上げられます。この部分はたとえば英語ではどう訳されているのでしょうか。慶應義塾にはニューヨーク学院高等部という高等学校がニューヨークにあります。この高校でよく使われている「慶應義塾の目的」の全訳からこの部分を引用してみますと、“a fountainhead from where flows the nobleness of character”が「氣品の泉源」、“an intellectual light and moral glory to illumine the path”が「智徳の模範」の訳です。実は、この訳がどなたによるものなのか寡聞にして存じません。私は英語が母語ではありませんが、とても良い訳だという気がいたします。

 「判断力」、「意思の力」ということを申し上げましたが、もう一つ、「表現力」。表現力といえば、川端康成の『雪国』の冒頭の一文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(『川端康成全集』第十巻九ページ、新潮社、 一九八四)という有名な一文があります。川端が『雪国』を完成するのに、十数年でしょうか、相当の長い年月を費やしたということはよく知られています。ひとくちに「表現力」と申し上げましたけれども、文学を専門とする方はよくご存じのように、作家は単語一つを選ぶのに大変な苦労をいたします。その集大成が表現力となって現れるという言い方もできるでしょう。その例として取り上げてみたわけです。

 同じ例を使いますが、日本語の表現力の例として、『雪国』冒頭の文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の主語は何か、ということを考えてみます。対照訳としてサイデンステッカーの訳をご紹介しますと、次のようになっています。

 The train came out of the long tunnel into the snow country.
(Y. Kawabata “Snow Country” translated by Edward G. Seidensticker, Alfred A. Knopf, Inc, pp.3, 1969)

 サイデンステッカーの英訳では、トンネルから出てきたのは汽車ということになっています。ところが、日本語のほうの原文を日本人に見せて、「この文の主語は何だと思いますか」と聞くと、答はまちまちで、「いろいろに取れる」という人も多いのです。汽車の感じもしますし、汽車に乗っている誰か(最初の文ですから「島村」と「葉子」が乗っていることはわかりません)の感じもする、文を読んで場面を想像している自分のような感じもします。このことは、日本語が論理的でないということではまったくありません。私はどのような言語でも特定の論理的構造をもっていると考えていますが、その論理の枠組みの中で、この例は日本語という言語の特質とも言えると思います。川端はこうした特質を十分に計算して冒頭の表現をしたとも思われます。語学を教えておられる先生方はよくご存じかと思いますけれども、言葉の繊細さや表現力は、大変重要なことだと思います。

 また、「リズム」は「語力」の大きな要因になります。ここでは、リズムとしての語力の例として、Laura Ingalls Wilderが書いた“Little House in the Big Woods”という、アメリカの有名な子ども向け小説を取り上げます。

 Once upon a time, sixty years ago, a little girl lived in the Big Woods of Wisconsin, in a little gray house made of logs.
 The great, dark trees of the Big Woods stood all around the house, and beyond them were other trees and beyond them were more trees. As far as a man could go to the north in a day, or a week, or a whole month, there was nothing but woods. There were no houses. There were no roads. There were no people. There were only trees and the wild animals who had their homes among them.
(L.I. Wilder,“Little House in the Big Woods”, Harper, pp.1, 1932)

 これは第一章の最初の文章ですが、素読して心地良いリズムがあります。お母さんが子どもに読んで聞かせるそのリズム。あるいは子どもが自分で読んで、呼吸と相まって身に浸み込んでくるような言葉のリズム。そういうリズムはとても大事ですが、身体性と言葉は、非常に強い関係があると思います。別の分野になりますが、最近の脳科学の研究によれば、運動機能を司る小脳が言葉の機能にも関係していることも推測されています。

 リズムと言葉ということでは、歌唱曲にたくさんの例があります。たとえば、ベートーヴェンの『交響曲第九』の有名な合唱の部分、シラーの「歓喜に寄せて」にベートーヴェン自身が冒頭の部分を付け加えたと言われている、あの歓喜の合唱があります。言葉が単にその意味を理解することだけでなく、多くの人の記憶に言葉を刻む語力を生み出している、よく知られた例であります。

Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum.
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt,
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.
(ロマン・ロラン『ベートーヴェン第九交響曲』より引用)

 次に「想像力」です。これもまた語力を支えるきわめて重要な力です。例として以下の文章を挙げましょう。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 これは、三好達治の最初の詩集『測量船』(一九三〇年)に収められている「雪」という詩です。たいへん有名な詩で、全国の多くの中学校、高等学校等々で教材としてよく使われてきました。この詩を読んで自分が何を想像するかということはとても大事で、国語の教材としては、読み手が何を想像するか、というふうに使われることが多いのではないかと思います。しかし一方で、三好達治がこの詩を着想したとき、言葉を選んだとき、文章を書いたときに、彼自身は何を想像していたのか、彼の想像力、語力はいったいどういうものだったか、ということに思いをめぐらすことも大切だと思います。むしろアクションとしての語力の例として、この詩は昔から度々私の心に浮かぶのであります。

 それから、言葉の「論理」もとても大事です。

あの人と結婚できれば僕はきっと幸せになれます。
でも、あの人とは永久に結婚なんてできません。
だから、僕は一生不幸のままなんです。

 これは私が以前出した本に載っている文章を少し修正したものです。来年の四月には慶應義塾大学に法科大学院が発足しますが、いわゆる法科大学院関係の適性試験の模擬試験が以前に全国規模で行われたときに、その模擬試験に出題された文章を多少変えたものです。この文章は論理的には正しいとは言えません。なぜなら、この文章の論理的構造は、「PならばQ」しかるに「Pではない」よって「Qではない」という構造で、これはP、Qの中身がどうであっても論理的には正しいとは言えないからです(もちろんP、Qの意味内容によってはたまたま意味が通ることはあり得ます)。

 けれども、聞くと、あるいは読むと、何となく「ああそうか」と思ってしまう。「語力」と言うときには、表現する文や文章が、論理的にしっかりした、間違いのない枠組みを持っているということが大切です。この文章を例として出しましたのは、こういう文面にだまされないようにすべきだということです。こうした文章にだまされるのは、その人がいけないというよりも人間誰でもが普通持っている性質なので、だまされないようにするにはある程度のトレーニングが必要なのです。論理性を故意に外してある文学的な表現法はもちろん別途あるわけですけれども、私が「語力」ということを申し上げるときには、やはり「論理的に整合した内容と表現」がまず重要である、ということです。高級な表現法はその先に来るものと捉えています。

 さて、最後になりますが、何か話す、何か書く、という行為には話した人、書いた人に責任が伴う、ということです。語力の大きな要素は自己責任です。

 Cette orientation visionnaire allant au delà de la réforme actuelle doit être le fruit de “réformes autonomes” par plusieurs établissements progressistes armés de leurs principes, de leurs convictions et de leur courage dans le droit fil de cette aube réformatrice que nous avons connu dans les années 80 et jusqu’en 90. L’Université Keio est à la tête de ce mouvement.

 これは私が、昨年パリで「日本の大学改革:現状と課題」と題した一般向けの講演をしたときの一節です。その最後の「L’ Université Keio est à la tête de ce mouvement.」、「慶應はこの運動の先頭に立っていくのだ」という強く言い切った言葉を私自身が一般向けにしゃべった、また講演レジュメとしても配布した、ということです。もちろん、言い切る言い方ができるためには、かなりの知識や経験、自分の志や決意など、いろいろな要素が入っていて、さらに単語や文体の使い方なども全部考慮に入れる必要があります。自分で責任を取ってはじめて、人に伝える力が出てくるのです。

 「語力教育とは何か」ということで講演を、と言われておりましたので、私がこれまでずっと思ってまいりましたことをまとめて申し上げました。慶應義塾では、およそ25の言語にわたって外国語教育が行われています。英語、フランス語、ドイツ語にかぎらず、中国語、ロシア語、朝鮮語、スペイン語、イタリア語、その他の言語等々、義塾には多言語の世界が広がっています。世界は多言語、多文化から成り立っていることを十分に認識していくのもたいへん大事だと思います。

 慶應義塾全学に、いま申し上げたような「語力教育」を展開していきたいというのが、私のたっての願いですが、「語力教育」にかぎらず、「教育」は慶應義塾がこれから新たに挑戦していくべき、きわめて大事なことです。十月一日にスタートした外国語教育研究センターは、慶應義塾が新しい教育に向けて踏み出す、大きなきっかけになってほしいと期待をしております。もちろん私自身も努力をしていきたいと思っております。センターに対する皆様のご指導、ご鞭撻、ご支援をあらためてお願い申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

(三田評論二〇〇三年十二月号より転載)

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