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小幡 篤次郎
小幡 篤次郎
1890~1897年
1890~1897年
(おばた とくじろう)
天保13年、中津藩士小幡篤蔵の次男として中津殿町に生まれる。
元治元年福澤諭吉に伴われて上京、英学を学ぶ。慶應2年から同4年(明治元年)まで慶應義塾塾長をつとめるかたわら旧幕府開成校の助教授をもつとめ、明治9年東京師範学校中学師範科(高等師範学校)創立の際にはその校務に参画、同年ヨーロッパを歴遊しアメリカを経て帰朝、12年には東京学士会院会員に選ばれ、13年交詢社創立に参与して幹事に推される。
明治23年貴族院議員、同22年10月病気中の塾長小泉信吉をたすけて代理を果たし、23年3月から30年8月までは重ねて塾長の任に就いたばかりか、31年4月副社頭に、34年10月社頭に推され、義塾においては福澤につぐ中心をなしていた。
明治38年4月16日死去、享年64歳。号、箕田。
天保13年、中津藩士小幡篤蔵の次男として中津殿町に生まれる。
元治元年福澤諭吉に伴われて上京、英学を学ぶ。慶應2年から同4年(明治元年)まで慶應義塾塾長をつとめるかたわら旧幕府開成校の助教授をもつとめ、明治9年東京師範学校中学師範科(高等師範学校)創立の際にはその校務に参画、同年ヨーロッパを歴遊しアメリカを経て帰朝、12年には東京学士会院会員に選ばれ、13年交詢社創立に参与して幹事に推される。
明治23年貴族院議員、同22年10月病気中の塾長小泉信吉をたすけて代理を果たし、23年3月から30年8月までは重ねて塾長の任に就いたばかりか、31年4月副社頭に、34年10月社頭に推され、義塾においては福澤につぐ中心をなしていた。
明治38年4月16日死去、享年64歳。号、箕田。
























