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小泉 信吉
小泉 信吉
1887~1890年
1887~1890年
(こいずみ のぶきち)
嘉永2年、和歌山藩士小泉文庫の子に生まれる。
慶應2年11月、同藩の留学生として入塾。業をおえて慶應義塾に教えるかたわら、明治初年には大学南校その他の学校にも教鞭をとり、同7年10月ロンドンに留学、11年帰朝後、大蔵省に勤めた。
明治12年横浜正金銀行創立に際し、その副頭取に選ばれ、14年には海外経済事情視察のためヨーロッパを巡遊、15年大蔵省奏任御用掛に任じて、ついで主税官となった。
明治20年10月大蔵省を辞し、招かれて慶應義塾総長に就任、同22年10月さらに塾長に選ばれたが、23年3月辞任。
のち、日本銀行に入り、同25年再び正金銀行の支配人に就任した。また、明治15年11月からは理事委員、同22年10月(第1期)から27年死去(第3期途中)にいたるまでの間、引きつづき評議員をつとめ、第1期途中までは塾長として評議員会会長の任にもあった。
明治27年12月8日死去、享年46歳。
嘉永2年、和歌山藩士小泉文庫の子に生まれる。
慶應2年11月、同藩の留学生として入塾。業をおえて慶應義塾に教えるかたわら、明治初年には大学南校その他の学校にも教鞭をとり、同7年10月ロンドンに留学、11年帰朝後、大蔵省に勤めた。
明治12年横浜正金銀行創立に際し、その副頭取に選ばれ、14年には海外経済事情視察のためヨーロッパを巡遊、15年大蔵省奏任御用掛に任じて、ついで主税官となった。
明治20年10月大蔵省を辞し、招かれて慶應義塾総長に就任、同22年10月さらに塾長に選ばれたが、23年3月辞任。
のち、日本銀行に入り、同25年再び正金銀行の支配人に就任した。また、明治15年11月からは理事委員、同22年10月(第1期)から27年死去(第3期途中)にいたるまでの間、引きつづき評議員をつとめ、第1期途中までは塾長として評議員会会長の任にもあった。
明治27年12月8日死去、享年46歳。
























