メインカラムの始まり
浜野 定四郎
1881~1887年
(はまの さだしろう)
弘化2年、豊前中津藩士浜野覚三の子に生まれ、はじめは丑之助と称す。
元治元年、福澤諭吉帰郷の際、小幡篤次郎ら同藩の子弟五人とともに福澤に伴われて出府、同年6月に入塾した。
卒業後は教員となり、明治7年から同11年までの間、中津市学校の校長として赴任した以外は一貫して慶應義塾に教鞭をとった。
中津市学校の校長を辞してのち、再び義塾に戻って、明治11年ごろから塾長の任についていたが、同14年1月「慶應義塾仮憲法」の制定により改めてそれにもとづいて塾長に選ばれた。
また、明治20年10月からは会計建築長、同22年10月から23年10月までは会計主任の任にあり、他方同14年1月には理事委員に選ばれ、22年10月には第1期評議員に選出されて、以来、35年11月の改訂規約によって第6期の任期中に辞任するまで連続して評議員をつとめた。
明治41年春退職。明治42年11月14日死去、享年66歳。
弘化2年、豊前中津藩士浜野覚三の子に生まれ、はじめは丑之助と称す。
元治元年、福澤諭吉帰郷の際、小幡篤次郎ら同藩の子弟五人とともに福澤に伴われて出府、同年6月に入塾した。
卒業後は教員となり、明治7年から同11年までの間、中津市学校の校長として赴任した以外は一貫して慶應義塾に教鞭をとった。
中津市学校の校長を辞してのち、再び義塾に戻って、明治11年ごろから塾長の任についていたが、同14年1月「慶應義塾仮憲法」の制定により改めてそれにもとづいて塾長に選ばれた。
また、明治20年10月からは会計建築長、同22年10月から23年10月までは会計主任の任にあり、他方同14年1月には理事委員に選ばれ、22年10月には第1期評議員に選出されて、以来、35年11月の改訂規約によって第6期の任期中に辞任するまで連続して評議員をつとめた。
明治41年春退職。明治42年11月14日死去、享年66歳。
























