メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.81 幻の門

三田通りに面する慶應義塾の東門が、塾生たちの間ではかねて60数年来このかた、俗に「幻の門」と呼ばれている。いわれは、義塾のカレッジソングの1つに「幻の門」というのがあって、それによるものと思われる。すなわち、この歌は昭和8年(1933)の春、義塾のワグネルソサイエティーと応援団(現在は慶應義塾応援指導部と称している)との手でつくられたもので、塾員堀口大學が作詞し、作曲には山田耕筰があたって、「幻の門ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」の1句にはじまるのである。

そして、この歌のつくられた当時は、もちろん南側の現在の正門はまだなく、西方(中等部側)の綱町方面に通じる裏門に対して、この門が表門と称され、つまり正門であった。しかるに昭和34年5月いまの正門が新設されるに及び、それと区別するためか、この旧正門に対してその異称「幻の門」なる呼び名がもっぱら使われているようである。

ただ、どうしてこれが「幻の門」なのか、その由来についてはっきり理解するものは意外に少ないように思われる。ときには、門標がないためだなどというような憶測もきかれたりしないではないが、いかにも現実的で卑近にすぎよう。それに、事実また右の歌の作詞者堀口大學自身の後年の述懐では、たとえ外見こそはそまつでも、これこそ青春のあこがれと理想を迎え入れる大きな門がそびえ立つように感じられ、これが形式にとらわれない義塾の精神と相通じるように思えて、これを「幻の門」と呼んで歌いあげたものだといわれる(『百年史』)。それでこそ、たしかに意義ある呼称というべきであろう。

もっとも明治の初めに慶應義塾がこの三田の台地に移ってからおよそ40年もの間、この門は旧島原藩邸当時のままのものであったから、堀口が義塾に学んでいたころにはまだ、その古風な木の黒門がむかしのおもかげをのこしてそこに立っていたわけで、それがいまのような洋風の石の門に改造されたのは、堀口大學がすでに義塾を去ったあとの大正2年(1913)のことであった。

平成12年(2000)4月に完成した東館の建設に伴い、幻の門は東館アーケードを通り抜け,ブリッジをくぐった坂道の上に移設された。またこの坂道の端には、旧島原藩邸の時代に馬をつないだといわれる馬留石(うまどめいし)も移設されている。